よかひよかとき エッセイノート Ⅰ  全十巻

 なにかのヒョウシにエッセイの種が芽生える。成長するかしないかはわからないが種は撒いておかないと大きくはならない。
 小説は作家が書く。登場人物は作家が創りあげる。だが、そのうち勝手に登場人物が動き出す。作家はただ筆を走らせるだけになる。そのようになると話がおもしろくなる。
 なんでも創作というものは、作者を離れ、ただ手を借りるだけのようになるとおもしろいものになる。この「エッセイノート」も、勝手に成長したものは 「数学的思考(?)エッセイ」 や 「きまぐれ創り話」 などに出荷しよう。


予備のようで予備ではない

 トイレにはトイレットペーパーが備え付けてある。くるくると回ってほどけるあれである。どこの家でもそうだと思うが、いま使いかけのものとは別に、もうひとつ真新しいものが近くに置いてあるはずである。我が家では、ペーパーホルダー自体に、別にひとつ新しいものを入れて置けるようになっている。ここが空になると、買い置きしてある押入れから新しいものを補充することになっている。

 もしトイレ内には、いま使っているペーパーの他に余分には置いてはいけない、ということになっていたとしたら、とても困ることになるのは明らかである。つまり、真新しいもうひとつのものは、予備に置いてあるのではなく、ひとつ目と同じく必要だから置いてあるのである。もし2つ以上置いてあるなら、2つ目からは予備のものである。

 同様なことは他にもある。例えば、自動車のタイヤ。パンクしたときのためにトランクの底あたりにひとつ置いてある。これも予備品と言うより、必需品と言うべきである。
 台所用品のラップ、プリンタのインクカートリッジ、などなどいくらでもあげることができるが、これらについても、同じことが言えると思う。

 だから、台所のラップを置くところには、いま使用中のものの隣に、真新しいものを置いておくスペースがなくてはならない。同様に、プリンタのインクカートリッジを入れてある隣には、真新しいものを入れて置くところがなくてはならないのである。  これらの場合はそのようになっていないのは、トイレでその期におよんで身動きできないで困り果てるようなことにはならないから、だろうか。でも、インクカートリッジなどはどこかに買い置きしておいても、いざというときには見つからないものである。

 予備のようで実はけっして予備でなく必需品である、というものが社会の中にも人生にも、結構みつかる。
2004.07.18 (Sun)


丸坊主にして考える

 夏休み。子らは成績表をもらって帰る。
 私もそうであったし、学生をみていても、学業成績というものはそんなには変わらないものだなあ。良い学生はいつも良いし、そうでない学生はいつもそうでない、ような気がする。頭脳の性能はそうそう変わるものでもないだろうが、それより性格とか意欲とかがそうそう変わるものではないからであろうか。

 そういう意味では人間は、ハードかソフトかは知らないが、がっちり固まって容易に変化しない。
 一度信用を失うと回復に時間がかかるのもそのせい。誤解がなかなか解けないのもそのせい。説得に手間がかかるのもそのせい。

 それが個性、アイデンティティというものであろうが、もう少し柔軟に変わったら面白かろう。

 頭を丸坊主にした。涼しいし、毎日簡単に洗えるし、髪形を気にしなくてもいい。快適そのものである。どうして、みんな丸坊主にしないのだろうと思う。だがこれは、実際丸坊主にしてみて初めてわかること。
 完全に客観的に完全に想像すること、それができないということが重大な弱点だ。意識して客観的に深く想像すること、を心がけるのが精一杯か。
2004.07.23 (Fri)


無自覚

 いびきをかくということを自覚できる人は少ない。いびきをかいている間は眠って意識がないし、眠っている間しかいびきはかかないから、原理的に自覚することは困難である。これはこれで本人は幸せなことではあるが。(まれに、自分のいびきの大きさで目を覚ます御仁もいないわけではないが…)

 何かをやっていて中断するときは、いま何をやろうとしていたのかをメモして離れるようにしている。戻ってきたとき何をやっていたのかを完全に忘れていて、それを思い出すのに時間がかかるからである。何かをやっていたのだがなあ、と思うときはまだいいほうで、ときには何かをやっていたことさえ忘れていて、せっかくのアイデアが失われることもある。そして、自分が忘れて無駄にしたということさえ気づかない。それはそれで幸せなことではあるが。

 新聞などで、今の世の常識のない人たちの行いを批判し反省を促す投書などを見かける。だが、これらを読んで反省してほしい人たちは、このような投書を読まないだろうなと思う。反省してほしい人たちは、これはこれで幸せな生き方であろうが。
 無自覚を自覚する、よい手立てはないものか。
2004.07.24 (Sat)


出題ミス

 入試問題で、出題ミスが発覚する。正解がないのに次の中から正解を選べ、というようなものなら確かに出題ミスで問題である。だが単に、次の問に答えよ、という問題なら、正解がなかろうがあるいは正解が複数あろうが、そのことを指摘することが正解である、という問題であると考えればそれはそれでいいのではないかと思うようなこともある。もちろん、出題者がそのことに気が付かないで採点したらそれは問題である。試験は、問題とセットで正解が用意されていなくてはならないものである。

 ウェブページで、自分で作成したソフトなどを自由に使ってよい、としたものも多いが、「ご使用による損害などについての保証は一切ありませんので自分の責任でご使用ください」というような断り書きを明記してある場合がある。これにならって、試験問題に「出題ミスだと思える箇所に気づいたら試験時間内に申し出ること。申し出がなかった場合には、出題ミスはなかったものとして採点する」
という但し書きを書いていたらどういうことになるのだろう。


(追)テレビの番組でこのような問題が出題されていた。
 ADの長さはいくらでしょう?
2004.07.27 (Tue)


こんな採点法はどうだろう

 通常試験では、解けなくて無回答だとその問についてはもちろん0点であるが、間違ったことを書いていたとしても同じく0点である。だから、学生は自信がなくても何か書いている。
 しかし、採点をしていると、これは無回答よりひどいと思うような、とんでもない考え違いをしている回答に出くわす。間違いの程度に応じて減点するような採点法に改めるべきではないだろうか。その方が教育的でなにかと害が少ないように思う。
 また、学生は自分の実力を正しく評価できることも必要であろう。そこで、自分の回答に自分で点数を付けさせ、それがピタリ当たっていたら10点加点、というような採点法も有効である、と前々から思ってはいるのだが、まだ試してみたことはない。
2004.07.27 (Tue)


これは意味があること?

 宝くじに2億円が当たって、それを匿名で寄付した人があるという。その人は、どういうつもりで宝くじを買ったのだろう。(自分で買ったのではなくて他人から貰ったのかも知れないが)。まさか当たるとは思わなかったのだろうか。うんぬん…、(以下続くが略)

 このような議論展開をときどき見かける。私が気になるのは、宝くじをどういうつもりで買ったのか、ということではなく、このような議論展開を平気でする人の考え方である。なぜなら、自分でも気づいているように、宝くじを自分で買ったのではなくて他人から貰ったのかも知れないからである。このことを無視して自分で宝くじを買ったものとして、話を展開しているからである。単に他人から貰ったのなら、このような議論は全く意味のないことである。

 というような架空の議論展開話をでっち上げてエッセイノートにすることは意味があるだろうか。
2004.07.29 (Thu)


この場合、逆は真か?

 四年に一度のオリンピックが近づいた。
「プレッシャーに負けました」という言葉が何回も放送されるのを聞いた爺ちゃん、
「プレッシャーという人は強いねー、どこの国の人だい?」

 スポーツという競技は、体調管理はもちろんプレッシャーも何もかも含めて競技、と言われる。そうであるなら、「強いものが勝つとは限らない」という言葉はあたらない。強いということには、何もかも含めていなければならない。
 競技する前は誰が強いのかわからない。

 そこで、「勝ったものが強い」という定義を採用することにすると、逆は必ずしも真ならずというが、「強いものが勝つ」ということは正しいか?
2004.07.31 (Sat)


異常とは?

 今年は異常に暑い。去年も異常に暑かったように思う。こう毎年毎年異常に暑いと、異常に暑いことは異常ではなくなり、異常に暑くないことが異常になる。だが…。
 昨年以降何十年かの気温を平均して平年の気温とし、それから何度か高かったり低かったりしたら異常気温とすると定義すると、例えば、異常に暑い年と、異常に涼しい年が交代でおとずれた場合、毎年異常気温の年になるということはあり得る。珍しく平年気温の年になっても、異常な年とは言わないのだろうか?
2004.08.01 (Sun)


部屋に蝉

 ジジジジと部屋の壁にアブラゼミ

 部屋の窓も網戸も開けていたら、今まで2回、蝉が部屋の中に飛び込んできた。あっちこっちでジッジッジッジッ、ジャージャー、いろいろな鳴き声が聞こえるが、姿を見ることは稀である。それが、突然部屋に飛び込んで来てビックリ。

 ある現象があると、必ずそれと類似のことが人間社会あるいは人生にもある。ある現象そのものには大した価値はなくても、それを例にして人間社会や人生を語る。これがエッセイの常套手段である。
 ということで、日頃声しか聞こえないものが突然目の前に姿を現した、という現象で何か語れないものかと考えたが何も出てこない。やはり、物事は考えて作ったものより、思いがけず出現することの方が何倍もおもしろく価値がある。

 という風にまとめると、さらに一段ひねった現象の使い方になる、と考えたのであったが…。
2004.08.02 (Mon)


極限としての理由

 1、2、3、…を自然数という。自然数の中で最も大きなものは無い、ということになっている。なぜなら、これが最大の自然数だと決めると、それより大きな数が必ず存在し矛盾を生じるからである。
 同様に考えると、生きる理由はない、ということになりそうだ。なぜなら、これが生きる理由だと決めると、何のためにそのために生きるのだ、と問われ、そのようにして永遠に理由を問われ続けることになるからである。

 だが、自然数に最大のものがなくても、小さいものと大きなものとがあるように、生きる理由にも、そこそこのものとそれなりのものとがあってもよさそうだ。また、自然数に極限としての無限大という概念があるように、生きることにも極限としての理由(例えば、うまいから、うれしいから、美しいからなどのようなもの)もありそうだ。
 何の関連もない自然数の大小と生きる理由を並べてみても、意味はないか?
2004.08.03 (Tue)


このような間違いをしていないか

 宝くじが売れるのは、学校で「確率」についての教育がちゃんとなされていないからだ、ということを聞いたことがある。この真偽のほどは怪しいが、「統計」については、その意味について十分理解されていないと思わざるを得ない。
 その人の性格をみて血液型が、とてもA型とは思えないとか、やはりあなたはO型ですねとか、いうことは間違っている。だいたい血液型で性格に特色があるかどうかの証明がなされているとは思えないが、仮になされているとしても統計的な意味しかないからである(ここのところは厳密には、推測の域をでていない、という批判はあり得る。すべての人について調査した、ということもあり得るからである。だが、少なくとも私はそのような調査はされていない。ここまで言うことはないか…)。

 「統計的な意味しかないことを個に当てはめることはできない」ということは、ちょっと考えてみればわかることである。例えば、我が町の人は隣の町の人より平均年齢が若いとき、我が町の年寄りに対してあなたは我が町の人とは思えません、という人はいないだろう。だが、なぜか血液型に関しては、しばしばこのような間違いをするのはなぜだろう。公共放送の番組の中でも、このような間違いを耳にする。
2004.08.07 (Sat)


何でもいいのだ

 次の数字は、ある決まりにしたがって並べてあります。□の数字は何でしょう。
  2、7、14、23、□、…
 感のいい人は、直ちに34と答えるだろう。2×2-2=2、3×3-2=7、4×4-2=14、5×5-2=23、6×6-2=34のように計算して。
 しかしながら、それだけが正解ではない。46でもよい。4186と4508の1を除く共通の約数を小さい方から順に並べるという決まりにしたがうと、2、7、14、23、46、…となるからである。この決まりを見つけるのに30分もかかってしまったが楽しめた。
 他にもいろいろあり得る。決まりを見つける手間を惜しまなければ、どんなものでもいい。そういうことである。
 各人が、それぞれ勝手な決まりを作ってもっともらしい意見を言う。そういうことである。
2004.08.12 (Thu)


使用上の注意

 「現状に満足してはだめだ、常に上を目指せ」
と言う。また
 「足るを知れ、幸福とは足るを知ることだ」
と言う。
 時と場合によって使い分けられる。薬が医者によって処方され、病状によって適切に使われなくてはならないように、よくよく状況を考えて適用されなくてはならない。素人の自己判断で、自分の勝手な都合で使用すると危険である。
 このような格言は、それを使用するための条件を詳しく研究することこそおもしろい。

「足るを知れ、幸福とは足るを知ることだ」
 (1)この格言は、定められた状況でのみご使用ください。
 (2)使用してみて、状況の改善がみられない場合には、使用を中止して信頼できる方にご相談ください。
 (3)判断力のない幼児がいるご家庭では目の届かないところに保管してください。このような幼児に使用させる場合には、保護者の責任においてご使用ください。
2004.08.14 (Sat)


ついに老眼だ

 子供のころからの近視であるが、このところ近くも見えなくなってきた。遠視の始まりである。このような場合通常は、遠く用と近く用の2つの眼鏡を持ち歩き使い分けるか、あるいは遠近両用の眼鏡にして、遠くの物を見るときは眼鏡の上部で、近くの物を見るときは下部の方で見るようにする、ということである。
 もともと普通の人が遠視になったら、老眼鏡をかけるだけである。私も近視用の眼鏡をかけて一応普通の人であったのだから、ただ老眼鏡をかけたらいいだろうという発想で、本を読んだりパソコンをしたりするときには今の眼鏡の上に老眼鏡をかけることはできないだろうかと、眼鏡屋さんに相談してみた。眼鏡に老眼レンズをピンで挟んで付け、パカパカ上げ下げできるものがあるというので、それにした。
 ピント調節を手動でやるようなものである。そのうち、小さなコンピュータで連続的にピントを自動調節できるレンズができないだろうか。ただ、こんなことを機械任せにしたら遠近感に対して鈍感になってしまうだろうか。
2004.08.18 (Wed)


あやふやの中で

 自然現象をつかさどる法則は、人間がそれに気がつこうが気がつくまいが、また、正しく理解していようが間違って理解した気になっていようが、そのようなことにはいっさい関係することなく存在している。
 他人になんやかや批評されて、何も感じないという人はいないだろう。だが、他人が良く言おうが悪く言おうがどのように思おうが、本来の自分の状態はその状態のままあるのである。良く言われたからといって良くなるものではないし、悪く言われたからといって悪くなるというものではない。ただ、その他人がそのように見ているということを知るのみであり、自分の状態はちっとも変わるものではない。また、他人の批評が的を得ているものか的はずれなものかを知るすべも無いのである。
 だから、他人の褒め言葉にうぬぼれてはいけないし、悪評に落ち込むことはないのである。

 という考え方がある。確かにそのように考えることはできるような気もする。
 だが、本当に自然現象をつかさどる法則は、人間の理解とは関係なしに存在するのだろうか、という疑問はある。
 人間の行いには本来良いも悪いもないとしても、だからこそなんらかの指標を求めたいとも思うのかも知れない。さらに、他人の批評が的を得ているものか的はずれなものかを知るすべも無いからこそ、他人の批評を気にせざるを得ないということにもなる。いっそのことスポーツ競技のように、明確な価値基準を人工的に定め、勝った者が強いということにすればわかりよいであろうが、そうまでして優劣を定めなくてはならないこともない、ということもある。

 あやふやな中であやふやのままに、時に他人の批評を気にし自分の思うように生きていくしかないか?
2004.08.25 (Wed)


うまく言えないけれど

 ラジオからサラサーテのチゴイネルワイゼンが流れている。なんとも悲哀なメロディーに思わず聴き入ってしまう。
 高校生まで、周りは山で囲まれた小さな山村で過ごした。人の少ない静かな村は、なんともいいようのない気持ちにさせた。そのなんともいえない気持ちが、実は寂しさというものだということに気づいたのは、その村を出て都会に住むようになってからのことである。

 その村がいかにひっそりとした村であったとしても、そこで生まれ育ちその土地しか知らない心に、なぜ寂しさという想いを抱かせるのか、ということは未だに理解できないでいる。
 ただ、その寂しさは、孤独というような悲観的でセンチメンタルでやりきれないものに違いないのであるが、一方でどこかチゴイネルワイゼンをバイオリンが奏でる悲哀のメロディーのものでもあり、それに浸っていたいという想いのものでもあるのである。これを趣き、あるいは情緒といいたい。

 そして、なにをするにも、この趣、あるいは情緒というものがなくてはならないものであるような気がするのである。
2004.09.03 (Fri)


煎じ詰めればどうなる

 いいことなのか、よくないことなのかは分からないが、物事について、何故かどうしてなのか、ととことん追求したいという性癖がある。物事の原理を明らかにする学問の世界でなら欠くべからざることであろうが、こと人の幸せになると、このような性癖は必ずしも望まれるものではないこともあろう。
 だが、徹底的に考えよう、と思っただけで物事が解決したような気になり、気分がよくなるのは、私のこの性癖のせいだろうか。

 前々から徹底的に考えてみたいと思っていることは、いろいろある。たとえば、

 〇およそ人がなすことのすべては、なんだかんだといっても詰まるところ自分の為だということにならないか。
 〇およそ人がなすことのすべては、自分の意志でやったようにみえても、つまるところそのように仕向けられた結果ではないのか。
 〇まじめに勉強し仕事に励め、そうすれば遊んで暮らせるようになると言うけれど、初めから遊んで暮らすのとどう違うのか。
 〇無駄であるとか無いとか言うけれど、結局生きていること自体が無駄と言えば言えるのではないか。

という類のことである。
 ボランティアにいそしむ人の偉さに、とても私には真似のできないことだと思いながらも、でもその人はそうすることで満たされているのだろうと思う。凶悪な犯罪者の、このような人間になったのは親や周りの育て方が悪かったからだ、という主張には、確かにそういうこともあるだろうと思うと気の毒な気がする。これらは、煎じ詰めればどういうことになるのだろう。

 数学で言うところの「集合」で考えれば、「自分の為」、「人のせい」という集合が、全体集合としてあるような気がする。その中の部分集合の領域で議論を行う人が、良識のある常識人ということであろうか。
2004.09.16 (Thu)


私はけっして怪しい者ではありません

 初めてかけてきた電話の相手は、おっしゃった。
「私はけっして怪しい者ではございません」

 この言葉に意味があるか。
 怪しい人が自ら「私は怪しい者です」とは言わないから、この言葉には意味は無いと思える。だが、相手が信用できるかできないかわからないなら、どんな言葉にも意味は無い。この言葉だけが特別なのではない。
 相手を信用して初めてすべての言葉に意味が出てくる。

「私はけっして怪しい者ではございません」の類の言葉を言わなければならない状況には意味がある。
2004.09.25 (Sat)


こんな文ではだめか?

 本、新聞、読む、反芻していない、ササッと、キーワード、追う、並べるだけ、だめ。なぜだ。

 本や新聞を読むとき、一語ずつを反芻しているわけではなく、ササッとキーワード的なものを目で追っているだけである。だからといって、文章はキーワードだけを並べておけばいいかというと、そういうわけにはいかないのは、なぜだろう。(そうでもないかな?)
2004.09.26 (Sun)


生きることに戦略はあるか?

 事がうまくいかないのは、すべて他人のせいである。
 それはどう考えてもそうである。
 だけど、そう考えて得をすることはなにも無い。
 自分が損をするだけである。
と、私はそう思う。私が自分のためにそう思うのであって、他人のためにそう思うのではないのであるが、これはまぎれもない真実である。と、私は自分のためにそう思う。

「正直が最大の戦略である」といわれる。
 これは、皆がそのように思ってその通り実行してくれればこの世が住みやすいところになるから、という理由で誰かが戦略的にでっちあげた思想ではなく、また経験則でもない。ゲーム理論という数学的な理論によって導かれた結論である。ただ、この結論を導くための仮定の真偽は私は知らない。
2004.10.11 (Mon)


金を得なくても得をする法があるに違いない?

 1万円落とし、それを誰かが拾って自分のものにしたとする。
 落とした私が1万円損をし、拾った誰かが1万円得をした、世界全体としては損得なしと考えていいだろう。
 では、1万円落としたが、それを誰も拾うことなくゴミとなって燃やされたとしよう。
 私が1万円損をしただけである。そうすると世界全体としても1万円損したことになるのだろうか。
 それとも、世界全体では常に損得なしでなくてはならないような気がするので、私も含めて全人類が1万円得をしたことになるのだろうか。
 私は経済原理をまったく理解していないようだ。

 だいたい私には、損だとか得だとかということはどういうことなのかがわかっていないのであるが、損得が金に換算できるものであるならば、日常、眼には見えない金が絶えず行き来しているに違いない。そして、眼に見える金を得なくても大いに得をする法があるに違いない。
2004.10.12 (Tue)


喜びの自発力、相互作用力

 良しにつけ悪しきにつけ自分の悲喜は他人の悲喜と相互作用している。まさか悲喜の絶対量は一定で、他人の喜びを増すと自分の喜びが減るということはあるまい。確かに、他人の失敗が自分を喜ばすという面があることはあるがそれらもひっくるめて、自分の喜びを最大にするためには、同時に他人の喜びをも最大にしなければならないという理論が可能ではないか? そのときの自発力、相互作用力とは何か? これは、愛といっているものとは異なるだろうから愛とは別な名で呼ぶにしても、その正体は愛に匹敵するほどのものであるような気がするのだが...。
2004.10.30 (Sat)


自分の考えには論理の飛躍が入り込む

 他人をけなす人はみっともない、と言うことは、みっともないことか? もし、他人をけなす人が本当にみっともないことで、しかも他人をけなす人はみっともないと言うことが他人をけなすことになるなら、みっともないことになる。

 これは、ただ甲は甲である、ということを言っているだけで、自分の考えを何も言ってはいないではないか、と思われるむきもあるに違いないが、その通りである。自分の考えにはおうおうにして論理の飛躍が入り込む、というのが私の考えである。
2004.10.31 (Sun)


自分の勝手な基準

 正しい正しくないとか、良い悪いとか、きれい汚いとか、すべては他人が勝手にルールや基準を決めてそう言っているだけであり、自分が勝手にそう思い込んでいるだけであって、本来は何もないのだと勝手に思い込んでみる。そう思い込んでみたところで、他人が勝手に決めたルールや基準が無くならない限りそう大して何かが変わるということはないのだが、少なくとも他人から褒められてもおごることはないし、他人からけなされても落ち込むことはなくなる。これを自分の勝手な基準にしたら人生楽しめる。良識ある他人は、それは若者の勝手な振る舞いだ、と言うかも知れないが、私は若者ではない。
2004.12.14 (Tue)


一から出発だ、というけれど

 “一から出発だ”というけれど、数学的には、“零から出発だ”というべきだ。
2005.02.07 (Mon)


共に白髪の生えるまで、といきたいが

 “共に白髪の生えるまで”という言葉があるが、私らの場合にはそのようにはいかない。
 “おまえ白髪になるまで、わたしゃ禿げるまで”。
 しかも、既にわたしゃ禿げている(禿の定義はないと思うので、正確には、髪の毛の数密度が極めて小さくなっている、というべき)。このような場合の詩的な言いようはないものか。
2005.02.08 (Tue)


病気のおかげで

 病気のおかげで、~に気付くことができてよかった。… でも、病気していなければ、もっと他にすごいことに気付いていたかも知れません。この場合、「病気のおかげ」は、ありやなしや。

「~に気付く」ことに対しては、「その病気のおかげ」は確かにあり。でも、「病気のおかげでよかった」ということにはなりませんから。残念!
「~のおかげでよかった」という言葉は、意味がありそうで実は「意味のない言葉」に入れてもよござんすか?よござんすね。
 同様に、「~のおかげでひどいめに合った」という言葉も、「意味のない言葉」に入れてもよござんすか?よござんすね。~のおかげが無かったら、もっとひどいことになっていたかも知れませんものね。

 よかひよかときの役に立たない語録: 「およそ人生に証明のできることはほとんどない」
2005.04.01 (Wed)


人の気持ちは物事と同種?

 近日中にやらなくてはならないが、今やらなくてもいいような雑用があるとき、たいてい今はやらない。気にして過ごすくらいなら、今やってすっきりした方がいいに決まっていても、やらなくて済むものなら、今はやる気が起こらない。そのメカニズムは簡単であるが、このようなことでも考え出すとなかなか疑問は深まり楽しめる。

 物事を、今やってすっきり過ごすのと、気にしながら過ごして切羽詰ってからやるのと、どちらが得かというと、たいていのことは前者である。すなわち、エネルギー的には前者が少なくて済む。
 ところが、動いているものを動かすのには力はあまり要らないが、止まっているものを動かすのには大きな力を必要とする。慣性力(ニュートンの運動の第一法則:慣性の法則)が働くからである。切羽詰らないと、慣性力に対抗できるだけの力が備わらないのである。これを切羽詰まり力という(誰がいうのかというと私がいうのである)。火事場の馬鹿力と同種の力である。
 もちろん、切羽詰まり力も慣性力も物事に働くのではない。人の気持ちに働くのである。

 さて、力学での慣性力は、物体に働く。物体とは、質量のあるものを言う。では、物体ではない人の気持ちになぜ切羽詰まり力や慣性力が働くのか?
 一般に力学でいうとは、物体の状態や動きを変化させるもの、のことである。切羽詰まり力や慣性力のは、物事の状態や動きを変化させるものであるから、人の気持ちに働く力というものがあるとするなら、人の気持ち、というものは物事と同種のものである、という、わけのわからないことになるのだが…。
2005.04.06 (Wed)


保存の法則と増大の原理

 お金やエネルギーは使えば無くなる、というのは正確ではない。使えばどこかに移動するだけである(保存の法則)。
 という風に考えることにしたら少しは心休まるかと言えば、そんなことはない。仕事をしないでふらふらしていると、原理に従いエントロピーは増大(もちろん蓄えは減少)する一方なのである(エントロピー増大の原理)。
2005.04.07 (Thu)


親切な悪人と意地悪な良い人

 あなたはどちらを選びますか? 親切な悪人と意地悪な良い人。

 どうも判断に迷うという人は、次で考えてみてはどう? カレー味のする大便と大便味のするカレー。まあこれは冗談。

 疑問に思うことは、親切な悪人とはどういう人? 意地悪な良い人とはどういう人?

 思うに、親切なことをする人や意地悪なことをする人はいても、悪人、良い人、はいないのではないかということ。
 “悪人”“良い人”という言葉は、“実体のない言葉”に入れてもよござんすか?

 もっともそうなると、“黒板消し”というものも“実体のない言葉”に入れられそう。そこに置いてあるだけなら、黒板の字を消していないのだから“黒板消し”ではないから(ハッハッハッ…)。
2005.04.08 (Fri)


膨張する有限

 宇宙は有限で大きさがあるといわれる。しかも膨張しているという。私の頭では、この世はすべて宇宙、100%宇宙だから、膨張しているといわれても、どこに膨らんでいくのか、膨らんでいくところは宇宙ではないのだろうか、という素朴な疑問でスッキリしない部分があることはある。一方で、宇宙は無限であるといわれても、それはそれで困る。
 今生きてやっていることが、私の人生のすべてであり、これ以外には無いのであるが、新しいことを知り、新しい考え方を修得し、それらを使って何かができるようになると、私の頭の宇宙が拡がり人生が拡がったような気分になる。宇宙が膨張することもあり得ないことではないのかも知れないなどと、見当違いのことを思ったりしている。
 私の頭の宇宙が拡がればそれだけ楽しみも増えるのかどうかは知らないが、放っておくと拡がる方向に進むように思う。ここにもエントロピー増大のような原理があるのだろうか。
 いずれにしろ、私の頭が有限であったとしても、膨張できるのなら一生楽しめることは間違いない。
 よかひよかときの、旅立つ若者への役に立たない挨拶語録:
「あなた方の未来は無限です、ということはありません。あなた方の未来は有限です。しかし、あなた方の努力(もしくはエネルギー)で無限に膨張させることができます」

2005.04.10 (Sun)


希少価値の価値はどれくらいの価値?

 謝る、贈り物をする、ことなどは、相手のためというより自分のためである、ことを認めざるを得ないのは、私が利己的すぎるせいか、それとも正直なせいである。いくら自分のためだといっても、計算ずくですべて自分のためにということではないような気もする。まあ多少飾って、図のような様子であろうか。

 つまるところ、すべてが自分のためであり、図で赤い部分は、修行の足りない私の場合、存在しない(空集合)かも知れない。もし存在するなら、それは非常に価値がある。どのような価値かというと、希少価値である。

2005.04.11 (Mon)


間違いが無い挨拶に意味があるか?

 入社式などで、「皆さんの世代は、酒をほとんど飲まなくなってきている。酒を飲むことこそ人生を豊かにする」という挨拶をする人はいないだろうが、酒を飲むのところを別な何かに置き換えれば、それなりの挨拶になる。例えば、人と係わること、とか、数学を地道に研究すること、とか、相手を思いやること、とかにするとそれなりのところで使えるだろう。
 ただ、私に挨拶させるなら、次のようになる。
「皆さんの世代は、酒をほとんど飲まなくなってきている。酒を飲むことで生じることが人生を豊かにすることであるとするなら、酒をのむことこそ人生を豊かにする」
 もちろん、酒を飲むのところはそれなりのことに置き換える。これなら、たとえ、~であるとするならという仮定が間違っていたとしても、言っていることに間違いは無かろう。間違いが無くなるが意味も無くなる? 間違いが無く意味がある挨拶はないものか?
2005.04.13 (Wed)


広い世界での定義

 xの値は、xの値を限りなく大きくすると、どのようになるかと問われれば、もちろん限りなく大きくなる、と誰でも答える。次に、1/x (x分の1のこと)の値は、xの値を限りなく大きくすると、どのようになるかと問われれば、限りなく0に近づく、と誰でも答える。その通りである。
 では、x・(1/x) (xと1/xの積のこと)の値は、xの値を限りなく大きくすると、どのようになるかと問われれば、どのように答えるだろうか。x・(1/x)=1なので、これは最初から1であるから、xの値を限りなく大きくしても1である、と答えるのが正解である。
 xの値を限りなく大きくすると、1/xの値は0に近づくが、0にどんな数をかけても0だから、x・(1/x) の値は0に近づく、としてはいけない。この考え方のどこがいけないのか、と問われたらすぐに正しく答えられない。高校数学で学んだ、極限値における性質を使って答える人もいるかも知れないが、その性質自体は高校数学では証明されていないので、それでは正しく答えたことにはならない。残念。
 我々が何の疑問もなくわかっていると思っている、xの値を限りなく大きくする、ということは、実はもっと一般的に定義されなければならないことなのである、そうしなければ、先ほどのような質問にも答えられないのだ。ということを、大学の数学で始めて知ったときは、心底感動した。
 また、連続であるとはつながっていることだ、と言葉の言い換えにしかすぎないことでわかったつもりになっていた。このような若い頭脳が、連続であるということのきちっとした定義を知って大きな衝撃を受けただろうことは想像していただけると思う。ただ、数学用語だけではなく、我々が日常使っている言葉にも、もっと広い世界でも通用する一般的なきちっとした定義があるはずだ、と考えるようになったのは、私の頭脳が若かったばかりではなく、それに加えて単純であったせいである。
2005.04.15 (Fri)


そうなりたいとは思わないようになりたい

 C、C++、C#、Java、Perl、PHP、VBScript、JavaScript、ActionScript などなどは、コンピュータで使われる言語である。それぞれに得意とする分野があるのだろうが、言語というものは日本語だけで済ませたい、言語の修得はひとつが限度だ、という私の弱い頭脳にとっては、こんなに様々な言語があるというだけで嫌気がさす。コンピュータのプログラムを、日常使っている日本語でできるようになるほどにコンピュータが進歩してくれればいいのだが、そうなれば人間と話をするようにコンピュータに思い通りのことをさせたり会話ができるようになるだろう。だが、それはまだまだ遠い先のことである。せめてコンピュータ言語はこれひとつで総て大丈夫ということになれば、私の弱い頭脳でもなんとか修得しようかという気になるのだが。

 私はどのような生き方をしたらいいのでしょうか、と他人に尋ねても何の役にもたたないように、種々あるこれらの言語のどれを学べばいいのでしょうか、ということは他人に尋ねても役に立たない。そこで、これらのできることできない
ことは何か、使用分野はどうか、実行方式は何か、さらに将来の見通しはどうか、などなどを調べて分類したいと考えたが、これがまた微妙に複雑に絡み合っていてスッキリ分類できるものではない。このような分類ができるためには、これらをそうとう習得し使用して、もはや分類することに意義を見出さないまでに修得して初めてできることなのである。

 よかひよかときの役に立たない語録:
「そうなりたいと思うことは、そうなりたいと思わなくなっているほどに知らぬ間にそうなっていなくてはならない」

2005.04.16 (Sat)


たまには役に立つ語録

 ひとっこ一人いない田舎道でも、あるいは誰一人いない深夜の交差点でも、車を運転していて信号機が赤ならば、たいがいの人は止まる。もちろん、こんな場合でも赤信号を無視したら交通ルール違反だから、これは正しい。私もそうしている。
 ところが、信号機のない横断歩道を人が渡ろうとしているとき、止まる車はめったにいない。もちろん、この場合車は止まらなければならない。すなわち、横断歩道を渡ろうとしている人は(後続の車にはちょっと見えにくいが)動く赤信号なのである。これはマナーでもあるが、れっきとした交通ルールなのである。機械には従うが弱い人間には従わないというのは、人間として情けない。

 というようなマトモナことを、私でもたまには言う。特に、私が車を運転しているときではなく、信号機の無い横断歩道を渡りたいときには。

 「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」(相田みつを)という言葉は好きである。どうして好きかというと、金もかけないでお手軽にしあわせになれるからである。ただし、お手軽な分だけゆだんするとすぐ元に戻る。そのしあわせを持続できるようになるには修行を必要とするのが欠点ではある。

 金をかけないということでは同じでも私の語録は役に立たない、と言われるのは心外ではないし、役に立たない語録を語るには、役に立つ語録を卒業した者のみが成せることである、ということに気づいてもらいたいとも思わないが、たまには具体的な他人の役に立つことも記しておこうか。

 よかひよかときの役に立つかも知れない語録:
「信号機の無い横断歩道を渡ろうとしている人は赤信号である」(注:信号機の無い横断歩道を渡ろうとすることは危険であるという意味ではない)

2005.04.17 (Sun)


効き目認められず

 学問は何のためにするのか、ということをよくよく考えて学問をする人は少ない。単位を取るため、就職するため、仕事をするため、金持ちの楽しみのため、貧乏人の暇つぶしのため、などという理由で学問をする。といっても、よくよく考えて学問をするものでもないしできるものでもない。学問は、真理を求めて厳格に研鑽を積まなければなし得ず、真理の前に頭(こうべ)を垂れて平等、謙虚、誠実であらねばならないことを身にしみて知ることにより偉くなる。たとえ理由が、単位を取る、就職する、仕事をする、金持ちの楽しみ、貧乏人の暇つぶし、などなどであろうと、そういう人にでも学問は効き目がある。
 という風に考え、私のような貧乏人の暇つぶしにでも学問をすれば少しは偉くなれるだろう、と努力はしてきたつもりであるが、禿げる歳になっても効き目認められず。努力が全然足りなかったせいだろうか、それとも、もともとこのような効能は無いのだろうか。
 よかひよかときの役に立たない体験語録: 「禿げ易く、学なり難し」
2005.04.18 (Mon)


どんなことからでも学べる

 相手に騙されたら、腹が立つ。馬鹿にされたら、気が滅入る。不平不満を言われたら、うろたえる。だが、人はこういう風にして騙すものなのだ、こういうことで馬鹿にするものなのだ、こういうことに不平不満を言うものなのだ、ということを観察すれば、そこから多くのことを学ぶことができる。人生どんなことからでも学べる。机についてすることだけが勉強ではない。

 と人は言う。なるほど、そういうことなのか。
 人生どんなことからでも学べる、机についてすることだけが勉強ではない、ということは机について学ばないと(誰かに教えられないと)、私のような凡人は永久に気が付かないというところが、凡人のままたる所以だろうか。

 それにしても、凡人のままであるのは、なぜ凡人のままであるのか、ということを学ぶためである、と気づいたところは、凡人らしからぬことだと喜んだのだが、残念なことに、ときにはなにも学ぶことがないこともあるということを学ぶしかなかった。
2005.04.19 (Tue)



よかひよかとき エッセイノート Ⅰ  全十巻
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