コンピュータのプログラム言語が使えるようになると、やりたい事がいろいろと好きなようにできてパソコンでの世界が大きく広がる。言語にもうんざりするほどいろいろあるが、それぞれに得意な分野、用途があるようである。 パソコン上でゲームやビジュアルなものなどが自分で作れれば楽しかろうと思い、とりあえず手軽な JavaScript を始めてみたら、これは意外と簡単、しかもかなりのものができた。では次に Java をと手を出してはみたが、これは少々複雑。時間があるときじっくり勉強してみようとそのままに。そのうち、どうせなら本格的に VisualC++ でもやってみるか、いややっぱりその前にもうちょっととっつき易そうな VisualBasic からやった方が、などなどと決めかねて、Java と VisualBasic と VisualC++ の本をいつも持ち歩くことになった。 えいこの際 Java と VisualBasic と VisualC++ の3つ同時に挑戦したら後悔することもなかろう、ということにあいなった。英語もろくにものにしていないのに、伊語と仏語と独語を同時に習い始めたようなものである。互いによく似たところもあって何が何だかどれがどれだかわけがわからなくなりそうになりながらも、言語の理屈理論などはすっ飛ばして、見よう見まねでやっていたらだんだんなんとなくわかってきた。文法もなにも勉強せずいきなり外国に行き、現地で日常生活をしていたら自然に言葉をおぼえていたような感じである。ただし、人に教えることはできない。なにしろ、なぜだかわからんけどこうすればできる、というレベルなのである。それでも素人の趣味としては十分楽しめるし、やっているうちに少しずつ新しいことに気づくのは嬉しいものである。 物をポイと投げ上げれば、きれいな放物線を描いて落ちる。この様子をパソコンの画面上で表そうとすれば、水平方向と鉛直方向の位置(x、y)を、時間 t をパラメーターとして式で与え、t の値を変えて座標(x、y)の点に物を描いていけばよい。あるいは、運動方程式を作り、それをパソコンを使って解かせて描けばよい。 しかしながら厳密にいうと、空気抵抗や地球の自転などの影響もあるし、さらにいうなら無数にあるその物以外の物体からも万有引力を受けているから、これらをすべて運動方程式に考慮したらどんな計算機だろうと解けない。 自然は、もちろん運動方程式を解きながら変化しているわけではない。それこそ自然に運動しているのである。逆にいうなら、自然は極めて複雑な方程式の解を与えているすごい計算機なのである。計算機といっても、われわれが使用している計算機をいくら大きく高速にしても「自然」という計算機にはならないだろう。自然は、自然の営みを行なう「自然機」である。 さて、人間の頭脳はどちらの型の機なのだろう。将棋や囲碁を計算機で解かそうとしても現在の計算機では人間にかなわないが、計算機はある面では人間以上の能力を発揮し、人間の創造以上の現象を表現し得るのも事実である。人間は計算機なのだろうか。おそらく人間の頭脳は、少なくとも現在の計算機のようなものではなく自然の営みのほうの「自然機」であろう (量子コンピュータ、バイオコンピュータが完成したらどうなのだろう?)。ただし、だからといって人間は自然をそのまま理解表現できるわけではなく、計算機のような認識の仕方でしか自然を理解表現できない。それは、人間同士が主として「言葉(言語、絵画、音楽などを含む)」でしかお互いを理解しあえないし、「言葉」でしか自己を表現できないように。 数学は自然の法則を表現する言葉としての面をもっている。G・ガリレイの言う「自然は数学という言葉で語られる」のである。しかしながら、自然の中でいろいろなことをどんなに体験しても、残念ながら自然は数学という言葉では語りかけてはくれない。数学は人間が自然を表現するために便宜上つくったものであるから、自然の方としては知ったことではない。数学を身に付けるには、自然の中で戯れるのではなく、人間の作った数学の世界に遊ばなくてはならないのである。自然は数学を教えてくれない。数学はあくまで、自然を表現するためにあるいは人間の論理思考を表現するために人間の作った文化であり一つの思想である。 一方で、サンテグジュペリの言う「大切なことは目には見えない、言葉では表せない。」意味のことも、また気になっている。同時に、「自然は、運動方程式を解きながら移動しているわけではない。それこそ自然に運動しているのである。」ことが気になる。すなわち自然の中で戯れることは別の意味で極めて重要なことである。自然はただ自然の営みを自然に還してくるだけであるが、その反応を敏感に肌で感じることが決定的な意味をもっているのであるが、それはどんな言葉でも言い表せないからこそ自分で生きて感じるしかないのである。 (2001. 1. 2)
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「自然は数学という言葉で語られている。」(ガリレオ・ガリレイ) 「心で見なくちゃ, ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは, 目に見えないんだよ。」(サンテグジュペリ) 「人為的な方法で見つけた自然はほんとうの自然ではなく、自然はもっと生き生きとしたものだ。」(げーて) 「数学の公理は真理ではなく制度、自然科学の法則も真理ではなく制度、その他の科学も制度。力の強いもの、頭のいいもの、それらももちろん制度の産物だけど、人に備わっている能力だからそれを育てる意志を持ちつづけることさ。人は何故に生きるか、ではなくて、生きるから人なんだ。」(よかひよかとき) |