> 『数学的思考(?)エッセイ』 の試み

30. 幸せは極値問題
 内の爺ちゃんはついに七十歳突入、婆ちゃんもそろそろ七十歳になろうとしているが、今のところとても元気に過ごしている。爺ちゃん、婆ちゃんは家内の父母であるが、家庭内では孫らからみた呼び方になるのは自然である。ただし、婆ちゃんは、婆ちゃんと呼ばれるとひどく歳をとったようでいやだと言って、みんなに 「グランマ(grandmather)」 と呼ばせている。爺ちゃんは知ってか知らでか、「グランマ」 のことを 「グラマ−」 と呼んでいる。

 さて、グランマと爺ちゃんは、若いときはこの世代の大部分の人々がそうであったように、とにかく働き通しだった。 「働いても働いても我が暮らし楽にならず」 で、食べたい物も食べず、旅行や遊ぶことはもとよりゆっくり休むこともなく、苦労ばかりであっただろう。そして、やっとこの頃生活にゆとりができたと思ったときは、すでに歳をとり、身体に若いときのような元気さはもうない。食べる量もほんの僅か、おいしい物もちょっと食べればもう食べられない。やれ甘い物は体に良くない、それ辛い物は血圧に良くない、といつも言われている。確かに若いときに一所懸命に働いたからこそ、いまの生活があるのには違いないが、なにか割り切れないものを思うのは私だけではないだろう。

 中学生の娘は、私の頃の中学生のときに比べてひどく毎日が忙しそうに見える。そんなに忙しくしてもしなくても、結局大人になればそう大して差がでるとも思えないのだが、確かにこの若い時代を如何に過ごすかが将来に大きく影響すると言えるようにも思える。他人の書いた本などを読んでいると、若かりし頃の苦しかった体験や努力について、それらが非常に役に立っているというような感想を述べてあるものも多い。まあそうなのであろう。

 さて、私も昨年10月末についに50歳に突入した。突入して1週間もしない日、左腕に少し痛みを感じた。後ろに手を回して物を取ろうとすると激痛が走る。そのうちなんだか力が入らなくて左手は真上に上げられなくなってしまった。生活するにはそれほど不便はないので、そのうち直るだろうとあまり気にしてはいないのだが、周りの人は 「それは五十肩だよ」 とか、水平までしか上げられない無様な様子に 「もう年だねー」 とか言ってくださる。しかしながら、それは理論的に間違っている。なぜなら、私の左肩は右肩と同い年なのだし、左肩だけが年を取ったわけではないのだから。
 左手をあまり使わないせいだ、という人もいる。確かに人間の筋肉は使えば使うほど強くなるという。だが、その一方で使えば使うほど疲れる。いったいどれほど使うのが理想的なのか。

 いったい人は何歳まで我が身を鍛え苦労すべきなのか、何歳まで将来のために頑張るべきなのか。それが問題である。せっかくの人生をいかに最大に幸せに過ごすか、ということはもっと真剣に考えてもいいように思う。尤も、特に50歳を過ぎたら自分のためではなく、人のため社会のために生きるべきであるという考え方もあることは承知している。そうであるなら益々、この問題は個人の問題ではなく国家的事業として皆で考えなくてはならないぞ。

 人生を最大の幸福なものにするためにはいつどれだけの苦労をするのが一番いいのか、ということは数学の条件付極値問題である。もちろん、自分のためではなく人のため社会の幸福のために苦労することが自分の幸せにつながるということも考えなければならないし、さらに言うなら、苦労すること自体に喜びを感じる人やストイックな生活を好む人もいることなども考慮に入れるなら、扱うに不足はない極めてむずかしい多体問題である。結局、意識しようとすまいと、人が生きるということはこの多体問題に挑むということであり、我々人類の歴史はこの多体問題に答えを見い出すべく過程なのかも知れない。すなわち、我々人類を載せたこの地球は、この多体問題を解くためのひとつの大型計算機なのかも知れない。
(2002. 2. 6)

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