> 『数学的思考(?)エッセイ』 の試み

34. これがいわゆる老人力?
 もう15年ほども前のことであるが、同僚に引き込まれて山岳部の顧問をしていたとき、顧問2人と5、6人の学生達とで、屋久島を縦断したことがある。学生らは40Kgの、私でも20kgの荷物を背負い山登りをしたのである。途中、休憩していると見知らぬ男性から、「私も学生時代は山岳部にいました。どこから上ってきてどこに下りるんですか? 今日はどこで寝るんですか?」 などと話しかけられてきた。もちろんしっかりと学生らが計画を立てて、その資料はポケットに入れていたのであるが、私はとっさに答えられなかった。大切な学生を預かっている引率顧問としてはみっともない話であり、失格である。

 実は前々から気付いていたのであるが、口にしてしまうと余計その傾向が強まることがあるのを恐れて言わないできたのだが、私はなぜか、地名や、商品名、曲名、人名など、”あらゆる分野の名前” を憶えようとする能力に著しく劣っている。つまり、これらの名前については憶えようと強く意識しない限り、憶えないのである。
 どこか旅行から帰ってきたとき、誰かから 「どこに行っていたんですか?」 と尋ねられても、「エーと、あっちの方です。東京のちょっと向こうの...」 としか答えられないのである。旅をしている最中でも、「昨日はどちらへ泊まられたんですか?」 とか、「今日はどちらへお泊りですか?」 と尋ねられても、地名も、ホテルの名前も出てこないのである。ましてや、どの飛行機で? とか、どこを経由して? とか尋ねられたりしたらほとほと困り果てる。だから、努めてパンフレットなどをポケットに入れておくのであるが、ちょっと挨拶として尋ねられたのにわざわざ調べてから答えるわけにもいかず、自分が本当にアホに見え、情けなくなるのである。(アホに見えるというより、本当のアホであることが知れるだけのことであるが...)

 このようなことは、地名だけに限らない。音楽の曲名からパソコンのソフト名まで、あらゆる分野についてであるから、誰かとまともな会話をしようとするのなら、あらかじめ資料なりメモなりを用意しておかなくてはならない。憶えていたものを忘れるのとは、根本的に異なる現象である。ところが、それに追い討ちをかけて、最近では憶えていたはずのことまで出て来なくなってしまい、もう私の頭には記憶装置がないも同然である。その場その場で何かをしているのだが後に何も残らない感じで、周りの人からは頼りないやつだと思われているに違いないし、あるいは迷惑をおかけしているのかも知れないが、そういうこと自体もあまり気にならなくなってしまったのである。お陰で、最近生きているのがずいぶん楽になったような気がして、ハッピーなのである。

 先日、学年末の学生の成績を集計印刷しほっとしていたら、まだ購入後1年2ヶ月目のノートパソコンがカタカタいい出した。変だなと思っていたら、たちまち動かなくなってしまった。まさかパソコンも学生の成績を出すまではと、無理して頑張っていたわけではあるまいが、どうもハードディスクがクラッシュしたようである。成績や会計のような重要ファイルは、同時にフロッピーディスクにも保存しているのでよかったが、その他のデータファイルは昨年末にバックアップを取っていたきりで、今年になってからのファイルはきれいさっぱり消滅した。今年になってからも多くのファイルを作ったように思うが、どんなものを作っていたかも思い出せない。今までのところなんらの支障もないのであるから、なければないで何とかなるものである。

 私のノートパソコンは1年余りよく働いてくれたが、そういえば 2、3日前から動きが妙に遅いなあ、と思わないでもなかった。それがクラッシュする前の兆候であったのだ。してみると、私の頭もクラッシュする兆候が出ているのかも知れない。尤もここ何年かは、私の頭脳は私のノートパソコンほど頭脳らしき労働をしていないので、むしろ錆付いてしまうのを心配した方がいいのだろう。いずれにしても、これは立派な老人力に違いない。ただ、このような老人力というものは、数学・物理をやっていくには、あまり有利な能力ではなさそうだ、ということが気懸かりではある。
(2002. 3.19)
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 このどこが数学的エッセイなのだろう (以前にもこんなエッセイがあったような気がする)。まあ、細かいことは気にしなくていいのが、老人力というものだ。

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