> 『数学的思考(?)エッセイ』 の試み

36. 生きているのを忘れるほどに
 ちょっと面白そうだな、と思える問題に取り組んだのはいいが、これが思いもよらず難問でなかなか解けない。ああでもないこうでもないと、考えられるありとあらゆることをやってみる。…が解けない。このような状態に陥ると、文字通り寝てもさめてもその問題が頭から離れず、何としてでも解いてやろう、何とかしたいという一念で何ヶ月も悶々とした日々を過ごすことになる。
 この方法でうまくいくのではないかというアイデアが浮かび、少しの期待を抱いて一所懸命にそれを試してみている時が、ゆいつ心安らいでいる時である。しかし大抵の場合その努力は無に帰し一歩も進展しない日々が何ヶ月も続くと、さすがに精神的にまいってくる。同時に、これ以上この問題に関わっていていいのだろうか、という不安に襲われるのである。
 「人間諦めが肝心。 深追いは禁物。引き返すのも勇気」 という言葉が頭をよぎったり、その一方では 「石にかじりついてでも、ものごとは絶対に諦めてはならない」 というような言葉を自分から求めて気を取り直してみたりするのである。
 だが、もう諦めようと思ってもすぐに諦められるわけではない。今までつぎ込んだ時間のことを考えてしまうし、また、もはや頭がそのモードに入り込んでしまっていて容易に切り替わらないのである。

 気が付いてみたら、私の貴重な青春時代はそのようにして過ぎ去っていた。今思うに、何かもっと建設的なことに取り組んでいたら…とか、もっと華やかなことに手を出していたら…とかという思いがないわけではない。だが、どうでもよい問題に没頭した時を過ごせていた時代が最高にしあわせな時であったに違いない。

 「お金を拾ったときが一番うれしいときだ」 と言われた良寛さんは、自分のお金を落として拾ってみたけれどもぜんぜんうれしくない。何回もやってみているうちに、お金が草むらの中に転がり込んでしまった。夢中になって探し、日が暮れてやっと見つけたとき、「お金を拾ったときのうれしさ」 が分かり、「今日はしあわせな一日だった」 ことに気が付いた、という逸話がある。

 確かに時を忘れて何かに夢中になっているときが人生最高のしあわせなのであり、逆に、夢中になれるものを何も持たないで生きていくことは結構つらいことなのである。 若き時代には、このことに気づかなかったのだろうし、また何も代償を求めないではいられなかったに違いない。

 何もかも忘れて何日も一つの問題にかかわることは、残念ながら今の私には許されないだろう。そして、何の代償も求めないほどにはまだ老成してはいない。だが、ようやく良寛さんの心が少しはわかるような気がしてきた。生きているのを忘れるほどに数学や物理学に没頭できれば、私はもうそのままその世界から帰れなくてもいい、そういう心境になりたいものだ。
(2002. 5.10)

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