正しいか正しくないかが定まっている文章を ”命題” という。たとえば、「福岡県は九州の県である」 や 「地球は太陽より大きい」 は命題である。述べてある内容が正しいときは 「真」、正しくないときは 「偽」 という。 他方、「富士山は美しい」 という文章は命題ではない。美しいかどうかということは主観的なものであり、その内容が正しいか正しくないかが定まっていないからである。 (内容の真偽が先天的あるいは原理的に定まっている文章が命題であるが、内容の真偽が先天的あるいは原理的に定まっているといっても、真であるか偽であるかを判断するのは自分である。したがって、判断ができるだけの知識や能力は持っていなくてはならない。) ところで、一般に判断の基準となるものとしては、真偽の他にもあるのではないかと思い至った。どのようなものがあるだろうかと考えみると、善悪、美醜、大小、長短、重軽、寒暖、気持ちいい気持ち悪い、禿げ非禿げ…などなどいくらでもある。 そこで、「レストランで食事をして金を払わずに出てきた」 という文章の内容の善悪が先天的あるいは原理的に定まっているとしよう。このように内容の善悪が先天的あるいは原理的に定まっている文章を “善悪命題” と名づけよう。 また、「人の顔の目鼻立ちがくっきりし整っている」 という文章の内容の美醜が先天的あるいは原理的に定まっているとしよう。このように内容の美醜が先天的あるいは原理的に定まっている文章を “美醜命題” と名づけよう。 また、「人の頭に毛が一本もない」 という文章の内容の禿げ非禿げが先天的あるいは原理的に定まっているとしよう。このように内容の禿げ非禿げが先天的あるいは原理的に定まっている文章を “禿げ非禿げ命題” と名づけよう。 以下同様である。 区別するために、真偽を判断基準とする本来の命題を、以下では ”真偽命題” と呼ぶことにする。 さて問題は、 善悪命題、美醜命題、禿げ非禿げ命題などが果たして存在し得るものかどうかであるが、これは善悪や美醜や禿げ非禿げなどが先天的あるいは原理的に定まっているものなのかどうかにかかっている。 “禿げ非禿げ” について考えてみると、「人の頭に毛が一本もない」 という状態は万人が認める 「禿げ」 に相違なかろう。しかるに、人の頭の総面積に対して毛が何本以下を禿げとする、という禿げの定義がなくてはならない。現在は無いかもしれないが、この定義は作ることは可能であろう(いろいろな意見があってまとめるのに困難が予想されるが)。 善悪命題や美醜命題に対しても、善、悪や美、醜についてのなんらかの定義がなくてはならない。これらについての定義は、禿げ非禿げについて以上に困難が予想できるが、やってできないことではない。 このように判断基準にもいろいろあって、その定義には困難は予想されるが、あくまで定義であるから話し合って、あるいは力づくででもできる。ただ、細かく見れば、命題の判断基準には、本当の意味での先天的あるいは原理的に定まっている基準もあれば、我々が話し合って決める基準もありうる。(本来の真偽命題の判断基準である真偽については、本当の意味での先天的あるいは原理的に定まっている基準なのか、という疑問がチラっと頭をかすめるのであるが、これについてはここでは深追いしないでおこう。) 真偽命題でない命題がどうのこうのと、長々と述べてきたが、言いたいことはこれからである。 情報を得るために、人の話を聞いたり新聞や本を読んだりするわけであるが、もしそれらの発する文章がすべて真偽命題のみからなっているとしたら、それは情報としての価値はともかく、まったく面白みのないものであろう、ということは容易に想像がつく。 現に、ここまでのこのエッセイはあまり面白いものとは思えない。その原因は、真偽命題を多く用いているからである。真偽命題は、ひたすら真偽の定まったことを主張するのみであり、そこに個人の勝手な感想や意見の入る余地はない。 学校の教科書があまり面白いものでない一因は、このあたりにあると考える。 しかしながら、数学や物理学の書物をこよなく愛し、面白がる人たちがいる。数学や物理学の本こそほとんど全てが真偽命題からなっているにもかかわらずである。これは一体どういうことだろう。考えてみる価値のあるテーマである。 逆に、真偽命題はいっさい使わないで、例えば 「善悪命題」 だけで文章をつくりあげたらどんなものができるだろうか。 試しに、ほとんどが 「禿げ非禿げ命題」 でできたものとはこんなものであろうか。 「秋も深まり、街行くそのおやじの頭には毛が一本もない。だがよく見ると、かろうじて残った3本だけが勢いよく風になびいて、その存在を主張している。」 面白くもない。これは一体どういうことだろう。考えてみる価値のあるテーマである。 考えるヒントは、発する側ばかりにあるのではなく受け取る側がどの命題として受け取るかにもあるようである。いずれにしても、発する側としての ”「数学的思考エッセイ」の試み” は、真偽命題を主とする数学的思考と、そうでない命題(文章)を主とするエッセイの融合をもくろむ試みであるが、そこに新たな”思考する面白さ” が現れてくることを追求したい。 (2002. 9.16)
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今後の課題 真偽命題は、 「pならばqである」 という形で表される。 このとき、 逆: 「qならばpである」 裏: 「pでないならqでない」 対偶: 「qでないならpでない」 という命題が作られる。よく知られているように、真(偽)の命題の対偶は真(偽)である。 では、”善悪命題”、”美醜命題”、”禿げ非禿げ命題” はどのような形で表されるか? また、これらの、逆、裏、対偶に相当するものは作られるか。もし作られるなら、例えば、善(悪)である善悪命題の対偶は善(悪)であるか? 残された課題は多い。 |