人はなぜ ”人はなぜ数学を勉強するのか” と問うのかということについて考えてみたい。人はなぜ数学を勉強するのか、ということについて考えようというのではなく、このような問を発することについて考えてみようというのである。 その前に、私はなぜこのようなことを考えてみようと思ったのか、ということから述べてみたい。多少こじつけ気味になるが、およそ次のようなことである。 あるとき誰かから不意に 「人はなぜ人を殺してはいけないのですか」 と問われたとしたら、私は何と答えるだろうと思ったのであるが、このような問を不意に投げかけられたら、この問に答えようとするより前に、「なぜ君はこのような問を発するのですか」 と逆に問いかけるだろうと思ったからである。 「人はなぜ人を殺してはいけないのか」 という問が、例えば学校で何かの教科の試験の問題として出されたのだとしたら、「人類社会が混乱をきたさないように、我々の取り決めにしているから」 というようなことをそれらしく飾り立てて書くしかあるまい。 このような解答が何かおかしい、何かが足りないと感じながらも、まさか 「なぜ先生はこのような問題を出すのですか」 とは書かないだろう。 ところで、あなたは今 「人はなぜ人を殺してはいけないのか」 という疑問をもつだろうか。試験問題としてでも出されたなら考えてみようかと思うかもしれないが、普通は自らこのような疑問を持たないだろう。それは、 「人はなぜ人を殺してはいけないのか」 という問を発すること自体に不幸を感じるからである。たとえ自分とは係わり合いのない他人であっても、その人にもやはり自分と同じような重い人生があるということを想像できるなら、けっしてそのような問は発せられないと思うからである。 同じ 「人はなぜ人を殺してはいけないのか」 という問なのに、それが試験問題としての問なのか、生身の人間から発せられたものか、その違いは天と地ほどに大きい。すなわち、問というものは、その問自身に意味があるのではなくその問をどのような状況で発するかということに意味がある場合もある。 さて、人はときに 「人はなぜ数学を勉強するのか」 と問う。試験問題としての問ならば、「物事を筋道をたてて論理的に表現したり、論理的に表現されていることを正しく理解する訓練のため」 とか、「物事を一般化あるいは抽象化して考えるため」 とか 「達成感を味わうため」 などなどとそれらしいことを書くしかあるまい。しかるに、目の前の学生から 「人はなぜ数学を勉強するのですか」 と発せられたならば、果たしてこのような解答が心に響くものであろうか。やはり、この問の解答を考えようとする前に、このような問を発する学生に一種の不幸を感じるのではあるまいか。そうでなければ、 私自身がいつしか、学生もそれぞれ自分と同じような人生を背負い生きている人間であるということを忘れかけている、に違いない。 (2002.10.10)
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数学は筋道を立てて物事を表現するためのものであって、筋道を立てて物事を考えるための思考法ではない。したがって、数学力を身に付けたからといって、筋道をたてて物事を考えることができるようになるのではなく、自分の考えなどを筋道を立てて人に話したり記述できるようになるだけである。
自分の考えなどを筋道を立てて人に話したり記述できる人は頭がよいように見えるが、頭がよいということはそれのみではないのは言うまでもない。もうひとつのいわゆる頭がよいとされる創造する力は、論理的でない思考が結晶化するまでいかに持続できるかということである(…と思う。) [練習問題] ある種族が雨乞いの踊りを行うと必ず雨が降るという。 なぜか? (これだと思える解答を得るまで考え続けること。) (答は → こちら) |