せっかくの人生、幸せを感じて楽しく過ごしたい、とだれでも思う。 だが、昨日と変わりのない平凡な日々が続くと、幸せを感じなくなるのが人間である。 傍からは幸せそうに見えるのに、本人は不平を言いながら生きている。 それが人間というものであるといえば、それはそうかも知れないのだが。
仮に、人の幸せの量を測ることができるとしてみよう。 ある人のある時間 t の幸せ量Sを測ってグラフで表したら、たとえば次のようになったとしよう。 図1 時刻 t2 から t3 の間、この人の幸せ量は最高である。 しかし、人は 時刻 t2 から t3 の間が一番幸せだとは思わないのは何故だろうということである。 また、この人が幸せだと感じているときはいつだろうか、ということについて考えてみたい。 ところで話は変るが、A地点とB地点がまっすぐな道路で結ばれているとしよう。 車でA地点を出発し、B地点に到達したらしばらくそこに留まり、その後再びA地点まで戻ってくる。 時間を t、車のA地点から測った距離をSとして、その様子をグラフで表したものが図1であるとしてみよう。 時刻 t2 から t3 の間、B地点に留まっていたことになる。 このようなときの車の速度vについての変化の様子は、図2になる。 図1の曲線上の各点における接線の傾き dS/dt が、速度を与えるからである。 図2 さらに、車の加速度aについてのグラフは、図3のようになる。 図2の曲線(直線)上の各点における接線の傾き dv/dt が加速度を与えるからである。 図3 さて、車の移動において、車に働いている力Fは加速度aに比例する。したがって、車に一番大きな力が働いているのは、時刻 t1 から t2 の間と、時刻 t4 から t5 の間である。これらは、速さを落とすために働いている力(ブレーキ)である。 話を人の幸せ感の話に戻そう。 この場合、図1でのSは幸せ量を表すが、図2のvや図3のaは何を表しているのであろうか。 幸せ量が変化するのは、そこになんらかの力のようなものが働くからであろう。 我々が感じることができるのは、この力のようなものだと考えられる。 先の車の移動の場合から類推して、この力はaに比例するであろう。 vは、幸せ量Sの変化の割合を表している。 aは、さらにvの変化の割合を表しているのであるが、この量aに比例するものが、我々が感じる幸せ感であると考えられる。 してみると、図1の場合、最も幸せだと感じるのは、時刻 t4 から t5 の間である。時刻 t1 から t2 の間は、逆に不幸せだと強く感じるときである。 つまり、まだ幸せ量は増加しているにもかかわらず、ああもう自分の幸せも頭打ちになってきたなあと思い、不幸せを感じるのである。 ここで論じたことは、幸せ感を論ずる素朴なモデルであるが、幸せ感の基本原理はおおよそこのようなものではなかろうか。 幸せ感は、その人の今の幸せ量ではなく、 幸せになろう、幸せであろうと努める力(努力)なのである。 幸せ量そのものは、基準値をどこにとるかによって変るものであり(力学でのポテンシャルエネルギーのようなもの)、幸せ感にはなんら意味をもたないものである。 人は、自分の幸せだった時期や他人の幸せそうな様子と比較してちょと不幸せな気分になったり、あるいは、平凡なのがいちばんの幸せなのだと思い直したりする。 なんとも複雑な人間心理である。 そんなふうに自分で自分を納得させながらなんとかこの人生を生きているのであるが、これらの心理は幸せ感とはまた別の感情のように思う。 (2003. 9.23)
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F=−gradU ( F:力, U:ポテンシャルエネルギー) |