晩秋から頭に異変が生じている。頭と言っても内部ではなく頭の毛のほうである。だから、それほど心配をしているわけではないのだが、風呂で頭を洗ったあと流しの金具の処に留まっている抜け毛の多さに、思わずどきっと息をのむ。親切な人から指摘されるまでもなく、このところの進行具合はまさに肌で感じられる。
頭髪の数密度が何本以下を禿という、という明確な禿の定義が存在しない限り、この期におよんでも私は禿ではないと言い張ることはできる。だが、それは世間では通用しない。なぜだろう。このあたりに、人間の機微(キビ)がある。 例えば、博士の学位を与えるかどうか、その方面の専門家数人で提出された論文を審査し判断する。その論文の内容が博士の水準に達しているかどうかを決定するための明記された基準があるわけではない。だが、その専門家には判断が可能なのである。判断ができる人のことをその方面の専門家というのかも知れない。 はっきりと定義はできないけれど、それなりに常識のある人がみたら明確にこのことはどうだと決めることができる。 はっきりとした基準はないのだが、それなりの見識者がみたら明確にそれが可か不可かを判断できる。 不思議というしかないのであるが、そのようなものが人にはあるのである。なくては、この社会がなりたたない。 ところが、物理学の世界ではそうはいかない。 運動の法則は3つあり、通常次のように述べられる。 ○第1法則(慣性の法則): 外から力を受けなければ、静止している物体はいつまでも静止を続け、運動している物体は等速直線運動をする。 ○第2法則(運動の法則): 力を受けている物体は、その力の向きに加速度を生じる。その加速度の大きさは力に比例し質量に反比例する。 ○第3法則(作用・反作用の法則): 物体Aが物体Bから力を受けるとき、同時にBもAから力を受ける。これらの力は、同じ作用線上にあり、大きさが等しく向きが反対である。 私が学生のとき受講した力学の先生は、講義の最初の時間にこの3つの法則を板書し、 「力学は、この3つの法則と万有引力の法則さえ知っておけばよろしい。これで力学の今期の講義を終える。」 とおっしゃった。学生であった私には全くその意味が分からなかったが、そのかっこよさは印象に残った。そこで私も真似して、力学の授業ではこの3法則を板書して、同じように言って学生の反応を楽しむことにしている。 学生が皆、1を聞いて10を知るほどに天才的ならば、確かにその通りなのであるが、そうはいかない。実際には、この法則をどのように使うか、またこの法則からどのような定理が導けるか、導いた定理の物理的意味およびその定理をどのように使うか、ということを講義することになる。 私ほどの凡才になると、この基本的な3法則ですら懇切丁寧に説明してもらわないと、理解できない。まず、疑問に思うのは、 『第1法則はなくてもいいではないか?』 である。なぜなら、第2法則で力が0の場合を考えると、加速度が0になる、加速度が0ということは、静止している物体はいつまでも静止を続け、運動している物体は等速直線運動をする、ということだ。だから、第1法則は第2法則に含まれているではないか。 だが、そうではないのである。 ある物体の運動について考えてみよう。その物体が静止しているのか、動いているのか、動いているならどのような動き方をしているのかを言うためには、基準になる別なものが必要である。そこで、れれわれは空間に座標系という物差しを設置できるとして、これを基準にする。 基準とする座標系自体が静止しているのか動いているのか、と疑問に思うことはない。この座標系自信が基準だからである。 ところが、例えば、物体を自由に落下させるというような実験をやってみると、基準とする座標系の取り方によって異なる結果が得られる。ある座標系では直線的に落下するし、ある座標系では放物線を描いて落下する。これでは困る。 そこで、何の力も働いていない物体を観測したとき、それが最初静止していたものなら静止のまま、動いていたものなら同じ速さのままで直線運動するような座標系を考えよう。ただし、このような座標系をいつでもとることができるかどうかということは実験観測に従うしかないが、これは実験で確かめられているのである。 この実験事実を運動の法則としたものが、第1法則なのである。だから、第1法則は懇切丁寧に次のように表現したら理解しやすいと思う。 ●第1法則(慣性の法則): 外から力を受けなければ、静止している物体はいつまでも静止を続け、運動している物体は等速直線運動をするような座標系が存在する。このような座標系を慣性系という。 次に、物体に外から力が働いたらどうであろうか。これについては、実験事実として次のことが確認される。 ●第2法則(運動の法則): 慣性系において、力を受けている物体は、その力の向きに加速度を生じる。その加速度の大きさは力に比例し質量に反比例する。 第2法則は物体の加速度について述べているのであるが、加速度というものはなんらかの基準の系が設定されていないことには定義できないものである。基準になる系として慣性系をとっている。その慣性系の存在を第1法則で述べている。だから、第1法則がなくてはならないのである。 このように明確な基準が存在する物理学の世界は、思春期の私を魅了した。他方、明確な基準がないにもかかわらず、自分自身を基準にして平気な人間社会に恐れを感じた。 そして時が経ち、頭髪の数密度が小さくなる歳になると、明確な基準がなくても人には判断ができる、そのようなものが人にはある、という世界が私を魅了する。 幸せかどうかの基準があるわけではないが、私はいま幸せである。あるいは、幸せであるかどうかを判断できるほどに私は成長したというべきか。 (2003.12.11)
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