> 『数学的思考(?)エッセイ』 の試み

72. 竹輪の穴
 好き嫌いはないから、出されたものはたいてい残さず食べる。ただ、竹輪の穴だけは残すことにしている。食ってもかまわないのだが食っても栄養にならないと思うからである。
 だが、穴のない竹輪より穴のある竹輪の方が旨いように思う。穴が味をよくしているに違いない。

 竹輪の穴は見えない。見えているのは竹輪とその向こうの景色である。じゃあ穴は無いのかというと、確かにある。つまり、竹輪の穴は竹輪があって初めてその存在が認められる。

 そのものだけでは存在できない、したがって、そのものだけを取り出してみることはできない、が確かに存在し役割を果たしている、このようなものは案外に多い。例えば、話の間、生け花の隙間、などなど幾らでもある。

 竹輪の穴が竹輪の味をよくしているからといって、竹輪の穴の大きさや形について研究する人はいない。あくまで竹輪の大きさや形についての研究ということになる。
 だが、時に、竹輪の穴そのものについて知りたいという想いになる。目に見える竹輪ではなくて、竹輪の穴そのものの存在を他人に伝えたいという想いにかられる。竹輪の穴の存在を伝えたくても、竹輪をみせるしかないもどかしさを感じながら。

 考えてみれば、目にし耳にし手に触れるものすべてが、自分が存在しなければ存在できないものであると言えなくもない。そういってしまったら身も蓋もないことになり話の展開のしようがなくなるが、自分の死は、確かに自分の生があって始めて存在できるものである。
 自分の死は体験できそうで、実際はけっして見ることも体験することもできないことであると思うが、死は、生きている今の自分にも大きな味付けをしているに違いない。だが、竹輪の穴を知るためには竹輪そのものを研究し竹輪そのもので表現するしかないように、生きている自分をもって表すしかあるまい。

 ところで最近、私が竹輪の穴を残すことに気づいた妻が、穴にキュウリを入れて食卓に出すようになった。よけいなことを、と思ったが確かにこの方が竹輪が旨いのである。
(2004.11. 2)
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 「もの」(要素あるいは 元という)の集まりを集合という。要素を1つももたない集合(このようなものも集合というのである)のことを空集合という。

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