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ウォーキング、ジョギングの勧め! 無名ランナーの役に立たないインタビュー (陸上部部報創刊号(H.12)掲載) |
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「人と話しをすることと文章を書くことを大の苦手とする」ことは、先祖代々から受け継がれてきた我が家の伝統である。もっとも6人も兄弟がいると、?番目の兄のようにいつも冗談ばかり言って人を笑わすことを生き甲斐としているような者や、?番目の兄のような出たがり屋、も出来てしまうものである。伝統をまじめに受け継いだのは、末っ子の正直な私くらいのものである。これだけでも十分不幸なことであるが、ついでに「男は若くして髪の毛の単位面積あたりの本数、すなわち数密度が小さくなる」という伝統(?)まで一緒に受け継いでしまいそうな状況にあることは、極めて不幸なことであると言わざるを得ない。この世では正直者が馬鹿をみる、ということに気が付くのが遅かった。 それでも人は生きていかなくてはならない。苦手でも人と話さなくてはならない。 よく、人生はマラソンみたいなもんだ、と言われますよねー。人生のどんなところがマラソンに例えられるんでしょうか。 「そうですねー。まあ一般に考えられるのは、マラソンはとにかく長い距離を、少々苦しくても我慢して走り続けなければならない。休んだり止めたりすることができない。という点が人生を思わせるんでしょうね。」 人の一生は、長く苦しいですか? 「まあ、楽しきことより苦しきことのみ多かりき、という感じですかね。」 最近公園などで、いつも決まった時間に決まったところをジョギングをしている人を多く見かけます。側からみてると楽そうにひょいひょいと走っていますが、やはり苦しいものなんですか。 「いつも走っている人はそう苦しくはないでしょうね。私は、どんなにゆっくり走ってもやはりしんどいのには変わりませんね。」 苦しくても、なぜ走るんですか? 「最初は私も、健康のためにやり始めたんですが、確かに走れば体調はいいし食事も旨いんですが、なにかそれだけではない何かがあるんでしょうね。自分でもうまく言えませんが...。先月シティマラソン福岡のハーフに初めて出てみたんですが、すごい人ですね。若者から60歳代以上の人まで5000人からの人が一斉に走るんですからね。そこでも人生を感じましたよ。どういうことかというと、自分も黙々と走るんですが、自分の前にも後ろにも延々と黙々と走る人たちがいる。自分はどんどんと抜かれて後ろに後ろに下がっていくんですが、それでもまだまだ自分の後ろにはいっぱい人がいる。自分がちょっと頑張ってスピードを上げると、たちまち2〜30人は抜けるんですが、ちょっと緩めるとたちまちどどっと抜かされる。まあ、どんなに頑張っても広い世界には自分より上がいくらでもいるし、自分より下もいくらでもいるという感じなんですよ。それに、どんなに頑張っても世界の記録に手が届くわけでもなし。だから苦しい思いまでして頑張ることもないかなあと思ったりするんですよ。」 でも、止めないで走るのはなぜですか。 「ええ、まあこんな体験をすると生きていくことが気分的に楽になりますね。それと結局、行き着くところは、”自己実現”のためですかね。自分が自分を意識するというか、自分がいまここにいるということを頭ではなくて、身体で感じるようなことですね。”私”というものが”私”であることは、この物理的な身体の中で生じている現象であるとしたなら、この現象は、この身体でしか起こらない現象である、というふうな...」 そんなことを考えて走っているんですか? 「いえいえ、走っているときはほとんど何も考えてはいませんね。いや何も考えられないですね。走ったあとスカッと気分爽快になるのは、起きているのに何も考えないでいられることができるせいでしょう。マラソンは折り返してからが長いが、人生は折り返してからは,はやいはやい。だから、」 あのー、もう時間がありませんので、このへんで。 「いや、まだいいですよ、時間はありますから。」 いえ、もう結構です。今度はお忙しい時にお伺いします。 文章が支離滅裂になってしまった。全て先祖のせいということで許されたい。(2000. 2.29) |
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