キルケゴールの「死にいたる病」は次のように始まる。 『 人間は精神である。しかし、精神とは何であるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか? 自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係することなのである。 人間は無限性と有限性との、時間的なものと永遠なものとの、自由と必然との総合、要するにひとつの総合である。総合というのは、ふたつのあいだの関係である。…… 』(枡田啓三郎訳:中央公論社) 高校の倫理社会の時間、実存主義についての話で紹介され、初めて目にしたとき、「こりゃ何かいな(難解な)? とてもついていけん。」 と思ったものだ(これは創作駄洒落にも載せておこう)。いま読んでもメマイがする。 どんなに難解であっても間違いのない文章なら、一語一語を手でなぞるようにして読めば解からないはずはなかろう。ということで、この難解な文の解釈に挑んでみた。(尤もこの部分だけでは、正しい解釈はできないのかも知れないが...。) まず、人間は「自己」であるといっている。「自己」とは「関係」であるといっている。その次の「その関係それ自身に関係する関係である」 というあたりからこんがらがる。 「関係」が生じるためには、少なくとも二つのものがなくてはならないが、それはつづいてあげられている相矛盾する二つのもの、 「無限性と有限性」、「時間的なものと永遠なもの」、「自由と必然」などである。相矛盾する二つのもののそれぞれの占める比重の異なりに応じて、成り立つ関係が違ってくる。この関係は固定したものではなくて主体的なもので、人間の「態度や行為」による。つまり「関係する」ということは、「人間の全人格的な態度や行為」であり、相矛盾する二つのものを総合するものが人間である。 なんだか、怪しくなってきた。またメマイがしてきた。気を取り直して...。 相矛盾する二つのものとして、「見る私」 と、「見られる私」 とする。それらの「関係」に「関係する」ということは、「二律背反する見る私と見られる私を総合すること」であり、それを行なう私が「自己」である。 ということかな (ほんとかいな?)。 偉大な哲学者にケチを付ける気は毛頭ないが、いずれにしても 「もちょっと解かり易い言い表し方をしていただけないでしょうか?」 と言いたくなる。 悪文の定義として、「一読してとは言わないが、2、3回読んでも頭にスッと入ってこない文を、悪文という」ということにさせていただくと、私にとってこれは立派な悪文ということになるが、もちろんこれは名文である。悪文か名文かは、文と読者の関係によって決定される主観的なものである。 「悪文の定義を定めるやり方の方法の存在が存在するのか存在しないのか知らないが、現実に実際に存在する実例として本文自身が、本文自身で示される。」 これは悪文の例である。 こういうのを 「悪文は一見にしかず」 というのであるが (これは創作駄洒落には載せない) 、一見して悪文だということがスッと理解できるから、悪文ではないとも言える。またメマイがしてきた。どうもメマイの原因は、自分自身が自分自身に関係してくる関係に関係がありそうだ。 (2002. 2. 2)
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「数学が完全であることを数学自身によって証明できない」(ゲーデル) |