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− プロローグ −
「あのー、今度入院することになりました、よかひというものですが…」
大きめのカバン一つと、大きな紙袋2つを両手にかかえ、看護師詰所の戸口で声をかけた。外来病棟の看護師さんから詳しく入院手続きの説明を受け、今度入院する病棟の方には連絡を入れておくから直ぐに行くようにと言われて来たのである。
詰所の中には、ちょっと年配の看護師さんと、まだ20代くらいの若くていかつい顔の白衣を着ていなければお医者さんだとは思われそうにない男の人が居たが、二人とも怪訝そうな顔付きで私の顔を見ている。
「えーと、今度入院することになったものですが、こちらでいいんでしょうか?」
「え、よかひさん? 本人さん?」
入院してくる人は、少しは病人らしくしてだれかに付き添われてくるものらしい。どこも悪くなさそうな男が大きな荷物を抱えて一人で立っていたので、怪訝に思ったらしい。こっちとしても昨日まで全く普通に働いていたのに、なんで今ここにこうして立っていなくてはならないのかという気分である。
いかつい顔の男の人は、顔に似合わずやさしいお医者さんで、主治医になってくださるS先生であった。5月14日(水)、薄日のさす日のことであった。
昨夕から痛み出した腹痛は、私を一晩中眠らせてくれなかった。私はしがない数学教師。それでも教師というプロの端くれ、これくらいの痛みなら授業を始めれば元気が出るということで、今まではなんとか切り抜けてきた。
単なる私の自己診断で、胆石でもできているせいだろうと勝手に決めていた。それにしても、どうも同じような腹痛がこのところ頻繁に起こる。ひょっとして万が一、胆石ではないのかもしれない、手遅れになるとまずいことになるかも知れない、という不安が頭をよぎった。
幸いにも今年度は授業を持っていない。5月から10ヶ月の間、内地研究員として近郊の大学の研究室に出向中の身である。まだ研究方針などの打ち合わせや、個人的にできる教材作りを行っていたので、急に休暇をとっても特に支障をきたすことはない。
何も知るよしもない妻は、いつものように朝食と弁当を作っていた。
「今日は休んで病院に行ってくる」
「その方がいい、その方がいい」
3、4年前から時々腹痛が起こることや、昨夕からの腹痛も隠していたわけではないので、心配性の妻は即座に賛成した。
「このまま入院してください。こんな値がでているのに、こんな人を帰す医者はどこにもいないよ」
大学病院の長い待ち時間に耐え、血液検査、尿検査、エコーなど一通りの検査を終えて、それらのデータを見ながら説明をしていた担当のI先生の口から、突如発せられた。
「入…、入院ですか?」
「確かに1.5cmくらいの胆石が2つあるし、炎症なども起こしている。黄疸の症状もでかかっている。γ-GTPの値は正常値の30倍もあるよ」
担当医の先生も、データを私に説明しながら、こんなにもひどいとは思わなかったという口ぶりである。
いきなり入院と言われても、何も準備はしていない。自宅に電話し、留守を守る妻の母に入院に必要なものを準備しておいてもらえたのはありがたい。
車を運転し自宅に取って返し休む暇もなく、ノートパソコンと何冊かの本をカバンに詰め込んだ。この際、落ち着いて病室で勉強でもしてやろう、という浅はかな思いであった。
入院の説明もそこそこに、直ぐにCTスキャン、腹部のX線撮影、胸部のX線撮影を終えると、早速、左手から点滴開始である。そういえば今朝から何も食ってはいない。
ところがそれ以降、水とお茶以外はいっさい口にしてはならない日々が延々と続くとは知る由もなかったのである。(2003.5.29記)
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− 人間、食べる楽しみ無くして生きられるか −
『酒が飲めなくて何が人生、食いたいものを食わずして長生きしたいとは思わない』
という人は多い。だが、果たして人間は食べる楽しみがいっさい無くても生きることができるのだろうか? ということを真剣に考えた人はそう多くはいないだろう。
”仙人は霞を食って生きる” という。悟りの境地に立ったもののみが可能なことなのかも知れない、と漠然と考えていた私であるが、期せずしてこのテーマに身をもって挑むことになってしまったのである。
肝臓は胆汁という消化液を常時作り続けている。その胆汁は胆嚢(たんのう)に濃縮して蓄えられ、食事をとると胃から十二指腸に降りてきたところでセンサーが働き、その胆汁が胆管を通して十二指腸に送られるのだそうである。
私の腹痛の主なる原因は、何らかのさらなる原因でその胆管を胆汁が流れないことにある、という。そのため、肝臓で作られた胆汁の行き場がなくて胆嚢に炎症を起こしたり、あるいは胆汁が血液に入り黄疸になったり、肝臓そのものに重大な支障を及ぼすということらしい。
真に問題にすべきなのは、胆汁が胆管を流れない原因を突き止め、それを除去することなのであるが、とにもかくにも、胆管を胆汁が流れるようにならない限り、食物、飲み物いっさいを口にすることは厳禁なのである。
真の原因追求のための、そして真の原因の恐怖に怯えながらの種々の辛い検査を受ける間、さらに、応急的にでも胆汁が胆管を流れる処置の出来ない限りは、食物、飲み物のいっさいを口にすることはできないのである。
「お食事の用意ができました。食堂にお越しください」
病院では、8時朝食、12時昼食、18時夕食に決まっている。その度ごとにアナウンスされるのである。何度むなしく聞いたことだろう。
来る日も来る日も一時も休みなく点滴である。透明な液体のこともあれば、黄色がかったもの、小さい袋のもの、どでかい大きな袋のものもある。
中には炎症を防ぐための抗生物質もあるが、長さ30cm、幅15cmほどもある、どでかい大きな黄色い袋が、私の一日の主なるエネルギー源である。必要な栄養素はもとより、マグネシュウムなどの金属類、アミノ酸など何でも入っているのだ。カロリーは1袋 1160キロカロリー。
このお陰で、飲み食い一切なしにもかかわらず私は生きているのである。たいして空腹感はないのである(もちろん満腹感もない)。 常に、「そろそろ、ごはんですよ」 と呼ばれてもいい時分のような状態である。
体重は、入院時の62.35kgに対して入院後16日目は60.15kg。 約2kgの減少である。
最初の1週間は、うとうとする度に何かを食べている自分の幻想にはっとしていた。だがそれを過ぎると何ということはない。
「おなかが減りますか?」
やさしい看護師さんたちはときどき声を掛けて下さる。
「いやー、意外になんともないもんですねー。私もついに仙人の境地に立ったのですかねー」
何のことはない。私の場合エネルギーは足りているのである。
つまるところ、食欲は空腹感にある。 おいしいということの楽しみや、食事の楽しみ、満腹感などは、2次的なものでそれほどのものでもない、というのが今現在の私の感想である。
これからの私の残された人生、食べることが出来るように敢えて危険な処置をするより、たとえ飲み食い一切できなくなりこのまま点滴生活が続くとしても、このような痛みの無い普通の生活ができるなら、今の私はこの状態を望みたい心境ですらある。なにより三度三度の食事の準備と後片付けが簡単であり、食事をとる時間すら必要としない。(2003.5.31記)
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− 伝えられないとはこのことか −
入院して3日目にMRIという楽な検査があったきり。最初の週の5日間は腹部に多少のじくじく感がある程度で無駄口を叩けるほどの余裕である。どこに行くにも連れて歩かなければならない点滴をぶら下げる器具にも慣れた。
だが、”飯を食っていないのだから意欲がみなぎるはずがない”、 ”あまり根を詰めると体に良くないのではないか” という2つの思い込みがあり、寝転んで本を読んだり、ちょっとパソコンをいじったり、見舞いに頂いたいくつかのパズル(超難しいものばかりを選んでくださり、いまだ完成しないもの多数)を眺めたりしての、ベッドの上だけの日々である。
週が開けて5月19日(月)。いよいよ本格的な検査の始まりである。ERCTというのだそうだ。
何らかの原因で胆汁が胆管を流れない。胆管は胆嚢から十二指腸に向かう細い管であるが、胃カメラを入れて胃の先の十二指腸まで通し、下から胆管に入り込んでその辺りの様子を見ようというのである。
胃カメラは以前1回経験があるが、かなり苦しいものであった。今回はさらにその先まで行って、さらに痛む部分に突入というのである。いやはや、なんとも…。
検査室には、胃カメラ専門のベテラン先生を中心に、4、5名のスタッフが待ち構えていた。
口に輪っかを噛ませられ、胃カメラが入れられる。いよいよ核心部への突入である。
「痛かったら言って下さい。痛み止めを打ちますから」
検査室に入る前に、痛み止めの筋肉注射は一応打ってもらってはいる。そして、”痛かったら握ってください” と言って左手にゴム風船を持たされていた。
『おいおい、痛いに決まっている。痛み止めをしっかり打ってそれがちゃんと効いてからにしてくれ!』
と言いたいが、口に輪っかのこの状態、ゴム風船では伝えられるわけがない。せいぜい顔をしかめて力いっぱい風船を握り閉めてやるしかない。
半ば頃からはやっと痛み止めが効いてきたが、もう頭も朦朧としてきた。ただ、スタッフの会話から、何回かの挑戦にも拘らずどうにも胆管には入り込むことができない、ということのようである。
『皆さん、もういいですから早く終わりましょう』
朦朧とした頭で私はそう言い続けていた。(2003.6.1記)
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− 地獄で仏の手。仏の手に不満は言えないが… −
各患者には、主治医と副主治医がついてくださる。学校でいうなら担任、副担任というところである。
私の場合には、外来での初診担当が膵臓(すいぞう)を専門とされる先生であったので、その先生を中心に膵臓研究室のメンバー4、5名の専門医でチームを作り治療にあたるということであった。そのチームの一員で患者の私との接触世話係りが、いかつくも優しい若き主治医のS先生である。
ところが、ちょうどこの時期が配置転換の時になっていたらしい。3日目の金曜日の夕刻S先生が主治医交代の旨、告げに来られた。
新しい主治医は、W先生という、顔からして優しそうなさらに若い好青年の先生であった。
昨日の十二指腸側から胆管を通すという処置は不成功であった。このままでは肝臓で作られ続ける胆汁の行き場がない。これ以上放っておくわけにはいかない。
5月20日(火)。という事情により、今回は、脇腹から肝臓に管を通し胆管の上の方から進入しその状況を検査、さらに胆汁を直接外部に流し出すという工事(まさに工事といっていいようなことを、平気でお医者様は私の体に施してくださる)を敢行することになる。名付けて、PTCD。
聞くところによると、昨日のERCTより、さらに ”ちょっと痛いかも知れない” という。お医者さまの言う ”ちょっと痛い” がどれくらいのものかは昨日で十分学習させていただいた。
昨日と同様、筋肉注射を受け担架に乗せられ、主治医のW先生と看護師さんに付き添われて処置室に送り込まれた。
処置室には、心強くも威勢のいい副主治医のK先生を中心に、他5、6名のベテランのスタッフの方々である。緊張しながらも見回してみると、なんとスタッフ全員が男である。心強いといえばそう言えなくもないが、なんとも索漠としたいやな予感である。
予想に違わず、痛い工事が始まった。
「痛ければ大きな声で痛いと言ってください」
と度々口では言いながらも、威勢のいいK先生は精力的に進められていく。
大きな声でといわれても、こちとら余りの痛さに息も出来ないのだ。声が出るはずもない。顔を思いっきりシカメながら、声もたえだえ蚊の鳴くような声で
「うー、痛いです。痛いですー …」
それでも作業を止めるわけにはいかない閻魔大王は、ではなかった、K先生は、若き主治医のW先生に指示を出された。
「手を握っていてやりなさい」
藁をもすがる私は、なんだかあやしいシーンだなとは思いながらも、差し出された手を握るしかなかった。痛さを伝えようと強く握れば、強く握り返されるのである。おいおいそういうことじゃあないだろうとは思いながらも、このW先生は心優しい方に違いない、と確信したのであった。
長い格闘の末やっと開放された私は、ほとんど記憶の無いまま病室に戻されたのであった。(2003.6.1記)
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− 事は思いもかけずやってくる −
「優勝おめでとうございます。今のお気持ちをおきかせください」
「ありがとうございます。でもまだ実感が沸かないですね」
こんな場面をよく見る。私にはこのような晴れがましい事はただの一度もなかったので、”そういうものかな” と思うのみである。
でも、本当に嬉しいことはそういうものかも知れないことは何となく想像がつく。 だが、なぜ実感がすぐに沸いてこないのか、という疑問が残る。
まさか、まさかこの私が、身を持ってこの理由を悟ることになろうとは。ただし私の場合には、直ぐには何が起こったのか実感が沸かないほどのショックの方であった。癌である。
5月28日(水)19時過ぎ。 入院後2週間をかけて行われた種々の検査の結果の説明があるという。
私と妻は、治療スタッフ一同の前に神妙な面持ちですわっていた。説明は、スタッフのリーダーで初診担当医であったI先生である。
胃、十二指腸、膵臓、肝臓、胆嚢の働きについての詳しい説明をした後、いよいよ私の胆管を胆汁が流れない原因の説明である。
「最初は、単に胆石のようなものが詰まっているだけだろうと考えていましたが、いろいろな検査データから他の原因も疑われましたので、胆汁を何回も詳しく検査しました。その結果悪性のものが出てきました。
全てを包み隠さず教えてほしいというということですので、申し上げますが、いいですか。悪性といっても5段階あります。
1.癌ではない。 2.癌の可能性がないとは言えない。 3.癌が疑われる。 4.ほぼ癌であるが、そうでない可能性もある。 5.100%癌である。
この5段階のうち、よかひさんの場合は残念ながら、ファイブです」
一瞬、ん? ファイブとは何のことだ、ファイヴ、5か、え! 5か。
さすがの私も一瞬頭がクラットシタヨウニ思う。
実はこの話をされる前に、肝臓自体の重大な疾患である ”原発性硬化性胆管炎” の疑いがある、ということも言われていた。これだけでも十分大変な状況であるという思いであった。でもこれはまだ疑いの段階である。ところが、癌は100%、疑いも無く癌なのである。
妻はもう泣き出さんばかりである。私は、直ぐに平静を取り戻していくつか質問をした。
他への転移が無いかこれから検査に入ること、スタッフ一同力を合わせて治療に最善を尽くすので頑張ってください、と励まされて、私と妻は病室に戻ったのであった。
妻が帰り、一人になった。
とうとう私もあの世に行くことになるのか…。まてよ、
こんなとき、人はいったい何を考えるのだろう
ということは私の知りたいことであったはずだ。そうだ
死を頭でしか考えたことがない状態でいろいろ考えたことは、果たして役に立つことなのだろうか
ということもこの際検証することができるではないか。また、
本当に救いようの無い人を、どんな言葉で慰めることができるのか
ということも、慰められる側として体験できるではないか。
などなどと、私の頭はフル回転しだしたのである。
そういえば、先ほど告知をしたI先生は
「告知をされた人は、2、3日後が一番落ち込みます。その後、4割の人がウツ状態になったりしますが、6割の人は前向きに生きて行こうとなさいます」
というようなことを言っておられたな。だが、私に限り、”ファイブです” と言われた瞬間ショックを受けただけで、今はいろいろ考えなくてはならないことが多すぎてなんだか興奮してきたぞ。
でもなぜ、2、3日後が一番落ち込むのだろう。これは物理的には説明できないことだから、これについてもじっくり観察と考察をしていかなくてはならない。
告知の夜は、このようなことを考えながらうとうとしたのであった。(2003.6.1記)
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− なぜ落ち込みは2、3日後にやってくるのか −
翌日の昼過ぎ、目を腫らし鼻水をすすりながら妻が来た。(せっかくの美人もだいなしである、と書いておこうっと)
どうも、昨晩のあのとき以来、ずーとこの顔であったらしい。妻も教師である。
「今日は授業や会議があったんじゃないのか?」
「午前中で終わった」
「そんな顔で?」
「ずっと下を向いていたから…」
「はっはっはっはっはっはっ…」
私は全然落ち込んでいないこと、むしろ、あのとき以来、おなかの痛みもとれ、ずーと続いていた熱も微熱に下がり、急に楽になったこと、本当にあと数ヶ月しか生きられないなら、これからは仕事も止めて無駄な雑用など一切しなくて済むので清々すること、死を目前にした状態で、人はどんなことを考えるのかなどいろいろおもしろい実験や思考ができる滅多にないチャンスであることなどを、まくしたてた。
家内を元気づけるために、まくしたてたのではない。本当に私はそのように思ってうきうきしていたのである。
だが、さすがに家内の悲しそうな顔をみると、胸に込みあげるものがある。そうか、悲しみというものはこういうものか。
つまり、そういうことなのだ。癌を告知されて、落ち込む大きな理由の1つは、自分が死んでいくということ自体ではなく、家族のものが悲しむことをしみじみ思うことにある。
自分の死に直面させられて、まず思うことは、死ぬことの不思議である。これは落ち込む原因にはならない。落ち込ませるのは、家族らの悲しみを思うことである。さらに、自分がいままでやってきた仕事の虚しさを思うこと。これから辛い病気と闘いながらもやるほどの価値あることは何か、希望が持てないことのやるせなさにに至り、人は落ち込むのだ。
ただし、このようなことはあくまで個人による。
全く落ち込まない変わった人もいることは、私自身がそうだから、そう珍しいことではないだろう。(2003.6.2記)
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− まさか臓器が性格を −
2日に1回だった妻の面会も、告知日以降毎日になった。
妻としても、私が元気を出すように何か美味いものを持ってきて食べさせたいところであろうが、何しろ私は入院以来いままで全く飲み食い一切できないのである。
「おいしいお茶でも持ってきましょうか」
と言われても、病院の食堂にあるお茶以外、それも口を湿らす程度にしか飲めないのである。
原発性硬化性胆管炎。 インターネットで調べてみると、10万人に2〜7人発病する難病で、現在のところ治療法がない肝臓の病気なのだそうである。最後の手段としては、臓器移植である。
私の場合、この病気である確率は今のところ5分5分という。胆管の癌との関係は今のところ分からない。
「一言で言えば、自分の臓器なのに、他の侵入物として攻撃してしまうために起こるのです」
というI先生の説明であった。
後日、妻は
「お父さん(私のこと)のこのような肝臓の外に向かわず内に向かう性向は、何でも自分の責任だと感じてしまうお父さん(私のこと)の性格からきているのかも知れない」
ととんでもない新説を唱えたのである。おいおい、気持ちは分かるが、それは細胞レベルの話ではないのか。
「逆かも知れないよ。おれの臓器がそうだから、おれの性格がそうなったのだ。そうすると、もし臓器移植してもらったとしてだな、元の持ち主が調子ものだったら、おれの性格が変わるかも知れないな。それだけは遠慮したいな。やっぱり、移植は止めとこう」
今はまだ笑って話せる話題である。
「そういう説は成り立たないかも知れないが、”いい人は早く死ぬ” というのは本当だな」
話は変わるが、17世紀の数学者フェルマーという人は、いたずら好きな人であったという。
『xn+yn=zn (nは整数で、n≧3) を満たすような、正の整数の組(x、y、z)は存在しない』
という、”フェルマーの最終定理” と呼ばれるものがある。フェルマーが、この定理を本の余白に書き付け、しかもこのいたずら好きの天才は次のようなメモを書き添えたのだ。
『私はこの命題に真に驚くべき証明をもっているが、証明を記すにはこの余白は狭すぎる』
そして、この定理の証明を書き残すことなく死んでしまった。最終的には1995年にワイルズによって証明されるまで、実に300年以上の歳月がかかったのである。
私には、そのようないたずら心はないので、そのような罪作りなことはしない。また、何十年後に、このホームページにはこんな仕掛けがしてあったのか、ということに気づいてもらえるような仕掛けも一切するつもりはないので、御安心を。(2003.6.2記)
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− ガンばるしかない −
5月30日の夜、ノートパソコンにPHSをセットして、病室でネットができるようになった。お陰で、新聞やウェブページも読めるし、自分のページも作成できる、Eメールもできる。職場や我が家に居るのとなんら変わりはないのである。(さすがに仕事だけはする気分にはなれません。)
妻や娘らからのメールや、身内、知人からのものはもちろん嬉しいが、見ず知らずの方からもいただき、私の元気の素になっている。感謝である。
ちょっとばかり大変な病のようであるが、適切な処置のお陰で痛みなどはなく、また飲み食いが一切できないでも生きていられる奇妙さにも、点滴や胆汁を取り出す管だらけの体の生活にもすっかり慣れてしまった。
ただ、連日の胃カメラや、血管造影などといった検査には、心身ともに消耗する。検査の辛さに耐えられず、逃げ出す患者さんもおられるとか。
私は教師であるが、遅刻、欠席がちな学生や、成績不振の学生に掛ける言葉として、”がんばれよ” ということしか思い付かない。逆にそれがプレッシャーになることもあるというから、時には、 ”やるだけのことをやれば、悔いは残らないよ。” とか言ってきた。
この3月、職場を定年退官された先生が、先月突然あの世に旅立たれた。自転車に乗っていて車にはねられたと聞く。電気工学科の楽しい先生で、卒業式の後での謝恩会の席では、10曲連続の童謡や、フランス語の歌、ドイツ語での話などユニークな挨拶をされていたのに。御冥福を祈りたい。
妻は、
「そういう方もおられるんだから、私たちはまだいいほうね。ありがたいありがたい」
と言って慰めてくれる。一応慰めにはなっている。
しかし、今の私のこの状況ではやはり、”がんばってください” と言われるのが一番元気がでるような気がする。 よし、がんばって検査を受けようという気になるのである。実際、患者の身としては、検査や治療を耐えてがんばって受けるしかないのである。
胆嚢(たんのう)を取っても、人生はたんのうできる。
管だらけのこの身だけど、くだだけはまかないようにしよう。
癌と闘うには、ガンばるしかない
駄洒落にも、いつもの高度で洗練された切れは、やはり無理なようである。
では、がんばって、エコーつき胃カメラとやらを飲んでくるか。
昨日の胃と食道の検査はつらかった。検査技師の方が、内視鏡を入れるところから取り出すまでの30分の間、こと細かく実況中継をしながらやってくださったので、なんとか耐えられたのである。
主治医のW先生によると、今日の方がちょっとだけ苦しいかもしれないという。覚悟を決めて、再び検査室に送られたのであった。
「昨日も来られたよかひさんは、顔パスで入れます」
看護師さん方の優しい冗談は笑えないけどうれしい。
終わった! エコーつき胃カメラ。
昨日で要領が分かっていたことと、痛み止めを打ってやっていただいた分、今日の方ががかえって楽だったような気がする。よかったよかった。(2003.6.3記)
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− 老人力は大物を超える −
”ひかえめで正直” であることが、先祖代々から受け継がれてきた我が家のよき伝統である、と信じて生きてきた。
だが、この伝統を真に受けて生きてきたのは、ほんとうにひかえめで正直者の末っ子の私くらいのものであろう。(この期に及んだら、多少の理論的矛盾は許してもらおう。)
父は若くして胃癌で逝った。長兄も胃癌で大手術、次兄もまた胃癌で大手術したが、現代の医術のお陰で今なお両人とも元気に過ごしている。
6人兄弟のうち、我が家のよき伝統の方は下の方で受け継ぎ、我が家の遺伝の方は、上の方の2人で立派に受け継いでくれたものと安心していたのであるが…。世の中、そうあまいものでもなかった。
ネットがつながって、溜まっていたメールの中に、4番目の兄から近況報告メールが来ていたので、返事を出さないわけにいかず、実は体調を崩し入院中であること、詳しくはホームページを見てくれ、と書いて送った。
その兄が、他の兄弟に知らせてくれたらしい。このようなメールをくれた。
” (前略) 兄弟には夕べ電話した。(中略) (1番上の兄は)長男というか、ガン克服者の貫禄と言うか聞くなり
「はあ…。たいしたことないよ、わしらあ胆嚢もすい臓も胃袋もみんなとってしまった。 ところで、ホタルがではじめたでよぉ」
とあっさり話題を変えてしまう余裕であっった。”
いやはや、長兄はあっさり話題を変えるほどの余裕を見せたか。さすが参りました、というしかない。
と恐れ入ったのであるが、しばらくして思い出したのである。
『ちょっとまてよ、そういえば、1ヶ月ほど前、電話をかけてきたとき、
”わしも元気は元気じゃが、ぼけてしもうてどうにもならんわー”
と言うとったなー。 』
やはり老人力には、大物をも超える何か超越したものがある。私もまだまだだなー、としみじみ感じ入った次第である。(2003.6.3記)
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− 数学はこういうときにも使える −
問. 病気Aは、10万人に2〜7人が発病するといわれてます。この病気に罹った人のうち、病気Bになる人の確率は5〜15%といわれています。ただし、単独に病気Bになる人の確率はK%とします。次の問に答えなさい。
(1) 病気Aに罹り、そのために病気Bになるのは、何万人に何〜何人でしょう。
(2) ある人が、病気Bになりました。この人が病気Aである確率を求めなさい。
今日は寝たままの状態にしていなくてはならないらしいから、とりあえずこの問題でも考えながら時間を過ごそうか。そんな余裕があればいいのだが。
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多くの励ましのメールいただきました。涙がでるほど感謝です。この場をかりて、お礼申し上げます。
血管造影の検査無事終了。まだ準安静必要。とりあえず、現状報告させていただきます。
夕刻、I先生の説明あり。今のところ、原発性硬化性胆管炎の明らかな証拠はない。可能性は、 50%以下。再度、肝生検の検査必要。
肺、骨、胃、食道の癌はない。胆管癌は、3回の検査のうちクラス5は一回。これについても、なお検査を続ける。
希望が見えてきたぞ。癌にしてもたいしたことはないぞ。と妻と手を取り合って喜びました。 (2003.6.4 - 20:30記)
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− 痛さも数値で −
”この度、痛みの国際単位が決められた。
従来、同じ加痛に対してそれを感じる度合いは、民族、男女、年齢、職業、人生経験、思想、おかれた環境などによって大きく異なることが、実験的に示されていた。したがって、痛みの国際単位を決めることは不可能であるとされていたのである。
ところが最近、民族、男女、年齢、職業、人生経験、思想、おかれた環境などによらず、同じ痛みに感じる作用が見出されたのである。それは、1本の鼻毛を一気に引き抜くことである。
この事実に基づき、1本の鼻毛を一気に引き抜いたとき受ける痛みを、『1ハナゲ』 とすると定められたのである。
使用例1.けつまづいて、足の親指の爪がはがれた。100ハナゲの痛さだった。
使用例2.「お前をお産したときは、母さんとっても痛い思いをしたんだよ」
「何ハナゲ?」
「1キロハナゲもあったんだよ」”
もちろん、冗談である。これは、何年か前ネット上で流行した嘘ニュースのひとつである。
痛みにもいろいろある。注射のようなキリキリした痛み、下痢のグチグチした痛み、頭がズッキンズッキンする痛み、などなど…。腹痛だけでもいろいろあるが、これらを他人に伝えるられるものではない。ましてや表現力の乏しい私は、いつももどかしい思いをさせられているのである。
先日、仏の手として差し出していただいた主治医のW先生に
「痛さはなかなか他人には伝えられませんね。なんとか数値化できないものですかね」
といって見た。(その後に、”手を握る強さではなくて” と付け足したかったのだが…)
「そうですね、今まで一番痛かった思いをしたときの痛さを10にしてください」
といともあっさりいなされてしまった。
「分かりました。じゃあ、この前の肝臓に針を打ったときの痛さを10にします。で、今後6以上の痛さのときは、痛み止めを打ってください」
と言ったのであった。
今日は一日中、痛み3〜2の腹痛が続いた。ちなみに、痛み3は、我慢できないことはないが何もする気が起こらない程度。痛み2は、半分座りでなんとかキーボードを打つことができる程度である。(2003.6.5-18:40記)
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− だまされるときは、まさかという人にだまされる、と言うけれど −
『 私と妻は、前回と同様、治療チームの前に神妙な面持ちで座っていた。妻は既に下を向いたままで、何かを必死でこらえているようである。さらに行われた検査の結果について説明するとのことである。
「よかひさん、いろいろと検査を受けていただきお疲れ様でした。ところで、私たちをよく見てください」
「はい」
「私たちをよく見てください。本物の医者に見えますか?」
「え!…」
隣に座っている妻は耐え切れない様子で、クックックックッ言っている。
そのとき、突然ドアがあいて、カメラマンたちがどやどやっとなだれ込んできた。
「申し訳ありません。今までのことはすべて、奥様の申し出により我々テレビスタッフが仕組んだ、ドッキリカメラです。驚きになりましたか。
でも、どうでしたか、自分が死ぬかもしれない状況に立たされたら、いろんなことをお考えになったんじゃあありませんか」』
あわただしく過ぎたこの3週間は地に足の付かない、悪い夢をみているようは日々であった。 そのためか、ついこんな馬鹿なことを考えてしまった。本当にドッキリカメラならどんなにいいだろう。
だまされるときは、まさかという人にだまされる、と言うけれど、いくらなんでもとてもそんなことができる妻ではない。
おなかに痛みがあるのは、紛れも無い現実である。今日予定されていた、肝生検は延期していただいた。
でも、何とかこうして馬鹿なことを考えているだけの元気はある。
窓の外は青空だ。今日もうきぐもを見つめながら、穏やかな一日であることを願うのみである。(2003.6.6-11:10記)
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− うきぐもを見つめながら −
「あなたが死の床についたと仮定しよう。自分の人生を振り返って、満足のいく一生であったか、そうでなかったかを、あなたは何を基準にして判断しますか?」
これは、発明王エジソンが蓄電池の発明で稼いだ資金を基にして設けた、エジソン奨学金の採用試験の問題のひとつだそうである。試験問題としては、なかなか気の利いた問題のように思えたので、こんど面接官にでもなる機会があったら、これを使わせてもらおうかと書き留めておいたのである。
ところが、この問題の求めているものは何であろうか、ということが気になりだした。
直感的には、「人生で最も価値をおいていることは何か」 ということのように思える。だが、自分の人生はいつでも自分で決められるというものでもない。だから、人生が満足いくものかどうかについて議論できるためには、少なくとも自分の人生はすべて自分で決められるということがなくてはならない。
さらに、満足するかしないかということは、なにかを基準にしてするものなのかどうか、ということがわからなくなった。
「いろいろな人がいろいろな人生訓を述べる。だが、人の人生訓は自分にとってほとんど役に立たないのはなぜか、 といことについて考えられることをできるだけ多く挙げよ」
この問題は、私がいま作ったのであるが、人は、「こうしなければならない、ああしなければならない」 というが、大抵の場合、「何のために?」 ということが明確ではない。それは、そうであろう。
「何のために?」 それこそ人生すべてをかけて語るべきことだからである。
といいながら、もっともらしいことを言いたくなる。
「よかひよかとき曰く、 鯉は滝を昇ることができる。激しい逆流があるからである」
いまひとつだな。なんの慰めにもならないか。
「よかひよかとき曰く、 人は虹の端に行きたがる。行けばそれだけ遠ざかる」
ちょっと力が抜けてきたような気もするが、生きる力にはならないか。
やはり孔子様にはかなわない。
「子曰く、之を知る者は之を好む者に如かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず」
(2003.6.7-12:50記)
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-14-
− またね、だけは御勘弁を −
イカの太ったのがタコだと思っていた人がいた。 馬と鹿を識別できない人のことを 「馬鹿」 というなら、このような人はさしずめ、「イカタコ」 と言われるだろう。
逆にイカやタコたちは、人間の太ったのがブタだと思っているかも知れない。
入院以来、飲み食い一切しないで今日まできた。体重は3kg しか減ってはいないが、もともとイカやタコからブタだと思われる心配はなかった体型だから、いずれ、衣紋掛けにパジャマが掛けられているのに間違えられはしないか。
(というわけで、直接のお見舞いは控えていただければ嬉しいです。)
4日に行われた血管造影の検査室は、パイプがむき出しになった殺風景な工場のようなところであった。大きな機械が中央に構え、修理すべき私の身体が水平な板の上に置かれた、という感覚である。大腿動脈に針を刺し、そこから管を肝臓近くまで挿入、造影剤を注入して、撮影を行うというのである。1時間近くの作業がたんたんと続く。痛みはほとんどないが、その仰々しさに緊張する。やさしい看護師さんが「大丈夫ですか」とときどき顔を覗き込んで声を掛けてくださるので、このまま放って置かれているのではないことに安心をするのである。
無事検査を終え、検査室を出るとき、やさしい看護師さん、つい
「じゃあ、またね」
と言ってしまい、その慌てぶり。
「またねじゃあない、またねじゃあない。どこかでまたお会いしましょう」
思わず笑ってしまった。
この検査は、それ自体はつらくはないのだが、その後6時間、針をさした部分をしっかりテープなどで押さえられ身動きできない安静状態。おなかの痛みよりも、寝返りを打つことさえ出来ない腰の痛みに耐えに耐えるしかないのもつらいものであった。
今日7日は土曜日。検査なし。痛み0.2〜1程度。何かをしていれば、痛みを忘れる程度。静かな週末だ。(2003.6.7-16:15記)
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− どんな大河にも源がある −
どんな大河にも上流をたどれば、ちょろちょろと生まれたばかりの源がある。
どんなベテランの医者にも、多くの初めての経験があったはずである。幸運にもというべきか不運にもというべきか、その現場に立ち会うことができた。
4日の血管造影は、その準備、検査、その後の安静まで8時間もベッドに寝かされたままになる。その間、食事はできないから点滴である。もちろんトイレにも行けないのであるが、麻酔や痛み止めなどの影響で出したくても出ない状態になるので、あそこから膀胱まで管が入れられる。
この膀胱管(正式名は知らない)挿入は、入院以来やむを得ず2回ほどある。いずれも若くもベテランの看護師さんにほんの1分程度で手際よくひょいと優しくやっていただいた。 チクチク痛いのは痛いが十分耐えられるものであった。
「じゃあ、血管造影の準備をしましょう」
朝早く、若き主治医のW先生と、もう一人同年と思わしき若き男の先生がやって来た。手には膀胱管セットがある。(これは当然看護師さんにやっていただけるものと期待、いや思っていたのに。)
W先生:「えーと、最初は何から?」
補先生:「これを開けてください。左手は不潔、右手は清潔にして、先の10cmくらいには手を触れないでください」
なんだか変だなと思って頭だけ起こしてみると、なんと補助の先生がマニュアル書を見ながらW先生に説明されているのである。
私は思わず
「え、マニュアルを見ながらですか!」
と叫ばずにはいられなかった。
「はあ、始めてですから。でも大丈夫です」
W先生はにこにこしながらお答えになる。
命に関ることじゃあないからまあいいか、と思ったものの思わず肩に力が入った。
あんのじょうというか、もう4、5分も経つのに、なかなか膀胱に達しないのである。その間、チクチクピリピリ。脂汗が出てきた。
「痛いですか?」
「痛いですー。十分痛いです」
向きを変えたらとかなんとか、2人の研究熱心な挑戦にも関らず、とうとう看護師さんを呼ぼうということになって、事なきを得たのであった。
私の体を初めての体験にしたW先生、将来は人の痛みのわかる大先生になってください。(2003.6.8-8:15記)
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− ハノイの塔の成就するまで −
”願わくは三十のハノイの塔の成就するまで”
もし閻魔大王様から、
「お前は、あと何日生き永らえたいのか?」
と問われたならば、謙虚にこのようにお答え申し上げようと、いっしょうけんめい考えたのである。
ただ、閻魔大王様は数学が苦手な方で
「お前は欲のないやつ、叶えてやろう」
とすんなり言ってくださるかどうか。それが大いに心配だ。
ハノイの塔とは、
”3本の塔があり、Aの塔に何枚かの円盤が大きい順に積んである(例として3枚の場合を図に示す)。これをすべてCの塔にそっくり移し変えろ”
というものである。ただし、次の3つの条件がある。
(i) 一回に一枚の円盤しか動かしてはいけない。
(ii) 移動の途中で円盤の大小を逆に積んではいけない。すなわち、常に大きい方の円盤が下になるようにする。
(iii) 塔以外のところに円盤を置いてはいけない。
さて、1枚の円盤を移動するのに1秒かかるとして、30枚の円盤をすべてCの塔に移し変えるのに、何日かかるかを計算してみよう。
一般に、n枚の円盤の場合の掛かる手数をN(n)回とする。(n+1)枚のときの手数は、もちろん
N(n+1)回であるが、この間には次の関係がある。
N(n+1)=N(n)+1+N(n)
これは次のように考えれば直ぐにわかる。
最初、Aに(n+1)枚あるが、上のn枚だけをそっくりすべてBに移すにはN(n)回掛かる。次に、Aにある一番大きな円盤をCに移す。最後に、Bのn枚をCにそっくりすべて移せばいいのであるが、これがまたN(n)回かかる。これで完成である。
したがって、上式の関係ができるのである。すなわち、
N(n+1)=2×N(n)+1
ところで、N(1)=1 であるから、上式を順々に用いると
N(2)=2×N(1)+1=2×1+1=2+1
N(3)=2×N(2)+1=2×(2+1)+1=22+2+1
N(4)=2×N(3)+1=2×(22+2+1)+1=23+22+2+1
:
N(n)=2×N(n−1)+1=2n-1+2n-2+…+2+1
さらに、高校1年で学んだ等比数列の公式をちょいと使って、
N(n)=2n−1
を得るのである。
30枚のとき、N(30)=230−1=1073741823回である。1回の手数に1秒掛かるとすると、これは約12427日≒34年である。 あとこれだけ生かせていただけるなら、私も85歳まで。 申し分ございません。
今日は昼過ぎから、前回うまくいかなかったあの、胃カメラを胃の先の十二指腸まで通し下から胆管に入り込み、胆汁を通す処置である。
”せめて三十のハノイの塔の成就するまで…成就するまで…” と唱えて頑張ろう。
それにしても計算間違いしていないでしょうね。もし間違いがあったら、早急に知らせてくださらないと…。(2003.6.9-11:30記)
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− 元気付けに日本酒を −
うまくいかなかった。昨日1時間以上掛かって行われた胆汁を通す処置である。結局胆管が狭すぎるということで、そこの組織を削り取ってくるところまでであった、と知らされた。
今日は、肝生検。肝臓に針を刺し、その針に入り込んだ組織の一部を抜き取るのである。かなり高度な技術を要するものだそうで、前回は3、4回も掛かかりひどく痛い思いをしたが、今回は幸いにも1回でうまくいった。その手際よさにあっけないくらいであった。感謝感謝。
明日は楽なCTスキャンのみ。
今日でちょうど丸4週間である。一応検査は終えたが、まだ病名が確定しない不安定な状態である。しばらく、このまま入院生活を強いられそうである。
こうしてネットが繋がっていると、職場の全職員への事務連絡のメールが、ここ病室にもどんどんと送られてくる。幸いなことに、今年は内地研究員ということになっているから、シラバスを書けだの、講演会の案内など全て無視できるが、いつもの年なら、なにかと落ち着かないだろうな、などとのんきに考え、実際のんきなことを考えている。
入院4週間を記念して、元気がでるようにサービスとして、点滴に日本酒をちょこっとだけ垂らしてもらうわけにはいかないだろうな。(2003.6.10-20:30記)
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− 空の青さと白い雲 −
”蚊のこぼす涙の海の浮島の、浜の真砂(まさご)を千々に砕かん”
秀吉の伝説の家臣、曽呂利新左衛門が、「この世で最も小さきものは何ぞ?」 と問われ詠んだとされる。
蚊の大きさを1cm=10-2m としよう。こぼす涙は、さらにその千分の1、その涙を海としてそこに浮かぶ島はさらに千分の1、その浮島の砂浜の一粒の砂は百万分の1、その砂粒を千粒に砕き、さらにそのひとかけらを千粒に砕くというのである。したがって、
10-2×10-3×10-3×10-6×10-3×10-3=10-20m
ほどになる。
原子の大きさは 10-9m程度、原子核の大きさは 10-13m程度。 素粒子である陽子の大きさは
10-14m。 そして同じく素粒子である電子の大きさは一応10-18m以下とされる。 新左衛門様、お見事と言うしかない。
”地の球(たま)を飛ばして遊ぶ人の住む、星を集めて鼻糞となす君”
この世で最も大なるものは何かと問われたら、このようにお答えしようと、急遽いっしょうけんめい考えたのである。詩ごころから勉強する時間は私にはないから、多少情緒に欠けるのは致しかたがない。
実数を対応させた数直線は、小さい側は小さい側に、大きい側は大きい側に無限に、そして連続に伸びている。便宜上原点Oを定めるけれど、本来どこが中心で、どこが僻地ということはない。
数という概念を理解することは難しい。 数とは何か、ということにこだわったら生きてはいけないというけれど。
もの思う高校生の頃、学校から帰るとよく裏山に登った。山と山に囲まれたわずかな谷間にはいくつかの小さな田畑、車1台やっと通れるほどの曲がりくねった狭い道路、その道路に沿って流れる小さな川などを、漠然と将来のことを思いながら眺めていた。夕刻にもかかわらず空は青々と澄みわたり、西から東に筋雲が流れていた。
人の世の無常を思ったのはこの頃からである。人はどこからきて、どこに行くのか。10年後、20年後、そして30年後、この空の青さと雲のある風景は、度々思い出すだろうと感じていた。
どんなに強く願っても、叶わないこともある。むしろ肩の力を抜いて静かに願うことこそ道は続いていると思う歳になってしまった。だが、あの空の青さと雲のある風景は昨日のことのようである。(2003.6.11-15:15記)
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− 腸さん、ごめん −
朝6時、体温を測り、看護師さんを待つのが日課である。脈拍数、血圧を測っていただき、昨日からの、通じの回数、トイレの回数などを看護師さんに報告する。
尾篭な話で申し訳ないが、通じは大切なことである。有る無しはもちろんであるが、その量や、色、形態についてこと細かくご報告することもある。看護師さんはプロであるから、真剣に聞いて下さるし、一緒に喜んだり心配して下さる。うら若き女性とこのような会話ができるのも病院だからこそである。
飲み食いなしの点滴生活も5週目に入った。我ながら気が狂わないでいられるのが不思議である。テレビの料理番組を見て、味を想像し気持ちを満たすことさえできる。
点滴だけの摂取でも、通じがないといけないのだそうである。そう言われても、押し出されるものも押し出すものもないのだから、お呼びがないのはしかたがないと、2週間も ”通じの回数は0です” と報告していると、無理やりお迎えを送り込まれることになる。
何にしても強制執行は辛いので、お迎えを送り込まれないように、腸さんの説得に努めるのであるが、腸さんもなかなか言うことを聞いてくれない。このところ何の仕事もさせてもらえなくて、何の楽しみもない腸さんの気持ちもわからないではない。
さらに腸さんにとって気の毒なことであるが、今朝主治医のW先生が来られた。
「来週、腸の検査もさせてください」
と言われたぞ。信頼すべきW先生の申し出、申し訳ないが断るわけにはいかなかった。腸さんには何の罪もないと思うが、ごめん我慢してくれ。(2003.6.12-12:50記)
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− 禿の十徳 −
作家、井上ひさし氏によると、どんなに不幸だと思われることにでも、良いことが十は見つけられるという。
氏によると、例えば 「禿の十徳」 として、次のようなことがあげられているそうだ(原著にあたったのではないので、正確ではないかもしれないが)
1.蝿(はえ)がとまろうと思っても滑る。
2.かつらをかぶる楽しみがある。
3.磨けば光る。
4.散髪代が節約できる。
5.整髪剤が節約できる。
6.あだ名をつけられやすい。
7.逆光の中では後光がさす。
8.待ち合わせの際,相手に見つけられやすい。
9.癌にかかりにくいという俗説もあって気が休まる。
10.女の子が敬遠するから身を正しく処しやすい。
9番には疑問がある。10番についても、身を正しく処すところはいいが、女の子から敬遠されることはない。いずれも私が身を持って体験済みである。
「病気」 にもいいことはある。単に頭で考えたのではなく、現在の私の状況から生じたことの中から順不動で挙げてみる。
1.仕事をしなくてもよい。(もともとあまりたいした仕事をしていなかったような気もするのであるが。)
2.ウンチが出ただけで、無常の幸せを感じることができる。
3.マンション販売の電話に対し、暗い声で 「主人は今入院中で、それどころではないんです」というと、向こうからすぐ電話が切れる。(あまりの効果に妻は感動し、メールまでしてきた。)
4.周りの人がより優しくなり、見知らぬ人からも励ましのメールをいただける。
5.今月の飲食費が0円であった。(エンゲル係数=0)
6.ダイエットができる。(私の場合する必要はないのであるが。)
7.体の仕組みや、現代の医療について勉強できる。(専門のお医者様が、直々講義してくださる。)
8.やさしい看護師さんたちに声を掛けていただける。
9.病気で苦しんでいる人の痛みがわかる。
10.何も考えないで居られる。
おっと、もうひとつ
11.妻とゆっくり話ができる。(失礼しました。)
(2003.6.12-19:00記)
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− 痛みは感情? −
大相撲がフランスへ興行に出かけた際、初めて相撲をみたフランス人たちは、
「なぜ、怪我人と病人が戦うのか?」
といったという。手足にサポーターを巻いた人、太りすぎの人たちばかりなので、確かにそう見えても不思議ではなかろう。
ここは病院、文字通り怪我人と病人ばかり。幼い子供の病衣姿を見るのはなお辛い。
体調のいい時は努めて、病室を出て別の棟につながる渡り廊下まで、とぼとぼと散歩に行くことにしている。もちろん点滴を2つ下げ、胆汁を溜める容器をくくり付けた器具をごろごろ押してである。
下を通る見舞い客や、病院関係の人、出入りの業者の車などを、ほほに手をあてて眺める。ここが唯一、日の光を浴びることが出来、また動いている社会を眺められる場所である。
普通に歩き、普通に生きている人たちに
「あなた方は、幸せなんですよ」
といいたくなる。
「いたいのいたいのとんでけー」
痛みは、感情であるという説がある。そうはいっても、子供の擦り傷ではあるまし、痛いものは痛い。そこに理由を必要とする。哲学を求める。
見栄もなく、ほほに手をあてて考える人になる。
痛みは、感情かどうか。それは私には分からない。 だが、辛さは、感情かも知れない。
人の痛みは辛さとしてわかる。 悲しいかな、自分の痛みをより強く辛さとして感じるのは、なんとも救いようがない凡人の証か。
今日は検査もなく、痛み0〜0.5、感謝感謝だ。 ただ、うまいものを食べるわけにいかないので、元気度を要求するのは酷というとこか。元気なときに、うまいものを食べるべし。
参考までに: 病院での食事マナー(1ヶ月間点滴を受け続ける場合)
同じ色、同じ味付けにも一切不平を言わず(耐)、
袋に記載された患者名を確認することを怠らず(笑)、
速すぎず遅すぎず四六時中垂らしていただくことです(従)。
(2003.6.13-16:30記)
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− 生きるから人 −
剣のために入門し、長年修行を積んで、師匠に認められると免許皆伝という認定書を受け、極意書を授かる。極意書とは、剣の極意が書いてある巻物である。その巻物には何が書かれているか。
”相手に切られる前に切れ”
身に付いてしまえば当たり前のものなのが極意というものなのである。
だがというべきが、だからというべきか、極意は知識としては教えられるものではなく、長年の修行を積むしかないのである。
人間天才でもない限り、頭のみではものは考えられないようだ。
病室で何もする気が起こらず、何もできない状況では、やはり新しい発想が生まれてこないのだ。
人間、体と頭を使い、自然を感じ人の中でとことん生きてこそ、疑問を持つことができる、得るものもある。
死ぬ心配のない状況で、人が考えたことが役に立つのか?
私の今回の考察テーマのひとつであるが、表すれば一言である。
役に立つも立たないも、人が考えることができるということ自体が、人が生きるということである。
すなわち、
”人は何のために生きるか? ではなくて、生きるから人なのである。”
もったいぶって極意書にするなら、ひとこと、こう書くか。
”生きよ”
剣の道にも種々の流派があるが、人の道には人それぞれに自分流があることは、言うまでもない。(2003.6.13-21:55記)
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− 正気に戻った気分です −
昼過ぎ、妻と渡り廊下まで散歩して、妻と別れ病室に戻ってきたら、急に汗がどどっと出てきました。汗をかいたのは入院以来始めてのことです。
そのとき、不思議なことが起こりました。どこにも痛みが全くないのです。頭が極めてすっきりしているのです。憑き物が落ちた気分とは、このようなことをいうのでしょうか。
人間、健康であるというのは、こうもさわやかなものだったのか、と感動しています。この1ヶ月の間、私は常軌を逸していたのを改めて感じたのです。やっと正気に戻った気分なのです。
それと、同時に異常に空腹を感じました。食欲が一気に出てきたのですが、お茶を飲んで紛らわすしかありません。
この1ヶ月の間、私は何をしていたのでしょう。朦朧とした状態で、まともな思考をしていたのでしょうか。気になります。
改めて、うきぐもを読んでみようと思います。もし、失礼なこと、馬鹿なことを書いていたら、朦朧とした状態でのこととして、お許しをお願いします。
このすがすがしい気分は、いつまで続くのか分かりませんが、健康であるということが、こんなにすばらしいことであるということを思い出すことができたことは、これからの闘病生活を、夢を持って頑張れるような気がしています。(2003.6.14-17:05記)
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− 道理で痛い? −
なんでも物事には道理があると考える癖がついている。理系人間の宿命である。
道理を知り納得すれば、それだけ気持ちが安らぐと思っていた。
子供の頃、雷が怖かった。天の神様の怒りだとは思わなかったが、どうすることもできず早く治まるのをひたすら祈った。
大人になって、雷の落ちる原理を知って、私はさらに怖くなった。今時の雷様は、いい男に落ちやすいという原理を知ったからである。(失礼しました。)
冗談はさておき、今日の大腸の検査は苦しいものであった。昨晩からの、町内一掃、ではない腸内一掃のために飲まされた600ccの液体。度々の催し、ではないモヨオしのために寝られたものではなかった。そして今朝の官庁、ではない浣腸。手許も狂うほどの拷問であるなあー。
そして、極めつけは、内視鏡による腸内検査。くねくねと曲がった大腸の長さは、1.5mはあるという。小腸に達するまでの道のりは難航に難航を重ね丸々1時間もかかった。どのようなことが行われているのか原理がわかれば少しは痛みも理解できるかもしれないと考えて、必死でモニターに写しだされる画面を睨み付けようとしたが、それも長くは続かなかった。
道理を知っても、なんの慰めにもならないこともあることを、文字通り痛く思い知らされた日であった。
日頃信心などしたことはないが、苦しい時の神頼み、というから、今の苦しい状況ではひとつぐらいお願いしてもよかろうか。
病気が全快し健康になりますように、とお願いしたいが、それではあまりに図々しいような気がするので、せめて次のようにお願いしてみよう。
病気が全快し健康になりますように、とお願いしなくても、全快し健康になりますように。
(またまた正気でなくなりつつある私なのか、これが正気な私なのか…) (2003.6.16-17:30記)
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− 純粋にやりたいことは何だ −
大病を患ったら、それを機に人生観が変わったという人は多い。
先日も病室でテレビを見ていたら、癌を宣告され死を突きつけられながらも、辛い闘病生活を克服した芸能人が話していた。
「今までは、自分の好き勝手に生きてきましたが、いろんな人に生かされているんだということを思い知りました。これからはやはり他人のために何かしなければという気になりました」
そして実際、奉仕的な活動をされている方々も多い。
私も今まで、
人生は、自分のやりたいことをして生きる
という信念で生きてきた。まあ、大体自由に楽しくやらさせていただいてきたのであるが、才能不足、実力不足、および努力不足の所為(せい)で、図らずも完全にはそのようには生きてこれなかっただけの話である。
今回の病気に遭い、また長く辛い検査検査の連続で、人生観が変わるだろうかということは、興味ある観察事項であった。
まあ、変化があったと言えば言える。この病気の所為で、今後は
人生は、絶対自分のやりたいことをして生きる
と正直強く思ったことである。我ながら、性懲りもなく罰当たりではあると思いながらも、見上げたものだと思う。
問題は、自分のやりたいこととは何だ
ということである。
今までのやりたいことというのは、実は、仕事の中でのことでしかなかったのではないのか。
社会的地位や職業、家族などを離れ、また、金のこともなども全く心配しなくてよいとして、純粋にやりたいこととは何だ。
そのようなものがあるのか。あり得るのか。
まだ、生きていたいという気持ちがある以上、純粋に何をしたいというのかを、この際考えるだけでも考える価値はあるような気がしている。(2003.6.16-21:05記)
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− また走りたいなー −
今日の検査は、造影剤を入れて腎臓から膀胱にかけてのX線撮影。気分も悪くならず楽な検査であった。感謝感謝。
本来、腎臓関係は今回の病気とは直接関係ないのであるが、先週の腹部X線撮影で、腎臓あたりに少し異常が見られるということであった。20年ほども前に尿管結石を患ったことがあるので、念のためにX線撮影することになったのである。
この1ヶ月余り、実にいろいろな検査をやっていただいた。たぶんこれで検査はすべて終わりだと思うのだが、あまり馬鹿なことばかり口走っているので、ちょと変わった脳のようですね、脳の検査もやっておきましょうと言われかねない。くわばらくわばら。
週末の土曜、日曜にジョギングをすることを日課にしていた。近所に、複雑な形をした大きな池を中心に、その周囲が絶好のウォーキング、ジョギングコースに整備された公園がある。妻とグランマ(妻の母を我が家ではこう呼んでいる)は約45分かけて、1周4.4kmのウォーキングである。その間私は、1週あるいは5kmを25分から30分近くかけてジョギングをするのである。
4年半前から続けてきたが、毎回2kmあたりからしんどくなる。それでも我慢して走るのである。
ジョギングを始めてからというもの、良いことづくめである。体脂肪は減り身体が軽くて体調が良い、食事はおいしい、何をするにもきついと思わなくなり、忍耐力も付いた、ストレス解消になるなど、これらが目に見えて実感できた。
だから、少々苦しくても、これでまた1週間、楽しく生活できると思えば、最後まで走り切ることができるのである。
私のような月にわずか40kmほどのジョギングでも、長い間続けていると、いろいろと発見がある。 この走り方だとどれくらいのスピードであるとか、もう少しスピードを出したほうが却って楽に走れるとか、今の脈拍数はいくらであるとか、などが分かるようになるのである。さらにおもしろいことは、ここは苦しいけれど我慢できるとか、このように考えれば気分が変わって楽になるとか、自分の気持ちをある程度コントロールすることができるようになるのである。走ることの本当のおもしろさは、このあたりにあるのであろう。
おそらく一流のマラソンランナーは、自分の身体や精神状態を分析し自在にコントロールできるのであろう。自分だけではなく、相手の状態も把握し、駆け引きをしながら走る。
入院以来、いろいろな検査をやっていただいたが、ほとんどの検査は、30分から1時間かかる。辛い検査もいくつかあったが、あの公園をジョギングしているとすると、今はどのあたりを走っているのだろうかと思い浮かべることもあった。あとどれくらい我慢すればいいか、これくらいの辛さならまだ何分間は耐えられる、肩に力がはいっているなー、力を抜いたほうが痛くないだろう、痛くないと思えばそれほど痛くないかも知れない、などなどと、ジョギングをしながら考えるように考えていた。
なんとか検査に耐えてこれたのも、ひとつはジョギングのお陰である。
またジョギングができるようになりたいなー。(2003.6.17-12:40記)
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− 今も昔もよかひよかとき −
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18日夕刻、治療チームの先生方に肝臓の専門の先生にも加わっていただき、今までの検査結果に基づいて病気の説明をしていただきました。
症状としては、胆嚢から十二指腸につながる胆管が細くなって胆汁がうまく流れないということである。そこに癌ができているかについては、何回かの検査のうち、クラス5であったのは1回だけであるが、癌がないとは言えない。2回目の肝生検の結果でも、原発性硬化性胆管炎(PSC)であるという証拠は見つからなかったが、実は肝生検の検査は副作用の少ない枝葉の部分の胆管の検査しかできないので、この結果からはPSCではないとは言えない。問題の部分の胆管についての肝生検は危険が大きいのでできない。結論として、胆管が細くなるという原因としては、他の検査を総合して考えるに、やはりPSCである可能性が極めて高い。
今後の治療法については、いくつかの選択枝が考えられるが、それに伴う副作用、危険度などを外科の専門医ともよく相談して、決めなければならない。
私の理解ですので、正確ではない部分があるかと思いますが、およそこのようなことでした。
あとどれくらいの期間の闘病生活になるのかは、私自身にもわかりませんが、妻や家族に支えられながら、頑張っていく所存です。
これまで、”うきぐも” を読んでいただきありがとうございました。(これからは、不定期に書かせていただきます。)
また、多くの方々から、励ましのメールをいただき、元気と勇気をいただきました。心よりお礼申し上げます。
よかひよかときが言うのも説得力がありませんが、定期的に健康診断を受けましょう。そして、お体を御自愛くださいますよう。
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問. ( )内に好きな言葉を入れよ。
” うきぐもを見つめて想ふ( )、今も昔もよかひよかとき ”
例1.故郷は 例2.彼の人を 例3.ほのほのと (by よかひよかとき)
(2003.6.19-00:00病室にて)
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− 食事まで苦痛とは −
点滴と、胆汁管は体に付けたままであるが、今日から食事をしてみようということになった。食べ物飲み物を口にするのは、実に37日ぶりである。
朝8時。移動テーブルの上のパソコンなどを片付け、今日に備えて妻が持って来てくれていた我が家でいつも使っていた箸を揃えて、愉しみに待っていた。
テーブルの上に、盆に入れられてゴロンと置かれたものは、袋入りOKUNOSU濃厚流動食200ml(104kcal)、缶入りハイネックス72-R濃厚流動食200ml(200kcal)、紙パック入り低脂肪乳200ml、そしてお茶。
一応盆に入れて持って来ていただきはしたが、なんだか、書かれた名前を見ただけで、食事というより薬品という感じなのだ。期待が不安に変わる前に、とにかく食べるぞ。
まずは、袋入り濃厚流動食をカップに移してみる。薄いピンクの液体である。固形物は何もない。牛乳をすこし甘くしたような感じの味である。これをチビリチビリ3分の1くらいは飲んだだろうか。もう結構です、という気分である。
次の缶入り濃厚流動食を開けて口をつけてみる。これも白っぽいが同じような味だ。一口なめただけで、もう結構です。
お茶が一番安心して飲める。流動食が薬品のような気がしてきたら、どうにも受け付けなくなる。気を取り直してチビリチビリ。何も考えないようにするためにテレビを付けてチビリチビリ。なんとか袋入りの分だけは流し込んだ。
紙パック入り低脂肪乳は、乳だから、なんとか飲めた。缶入りのやつは、缶ジュースのような格好をしているがもう見るのもいやである。
おなかももうパンパンである。もう9時になる。申し訳ないが、御馳走さまというより、ギブアップ。
揃えておいた我が愛用の箸は、そのままの状態で虚しく置かれたままであった。
あれから2時間。幸いおなかは痛くはならないが、もう11時だというのに、わたしのおなかはパンパンのままだ。12時には昼食が始まる。
と心配していたら、今、看護師さんが様子を尋ねにきてくださった。
「無理もないと思いますよ。じゃあ、お昼は加減して用意しましょう」
やさしい看護師さんたち。ありがたや。ありがたや。(2003.6.20-11:10記)
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− フィジカルコントロール? −
「無理もないと思いますよ。じゃあ、お昼は加減して用意しましょう」
朝食の様子を尋ねに来られたやさしい看護師さんが確かにそう言われたのだが、昼のお薬、じゃあない食事も、袋入り濃厚流動食2袋と、紙パック入り低脂肪乳であった。
今回は、袋入り濃厚流動食が最初からカップ2つに入って、少しだけ温めてあった。これだけでもありがたいと思う。もし加減してもらえなかったら、これに缶入り流動食も付いていたのだろう。一応感謝。
朝食のときは、期待が大きかった分落胆も大きかったのだろう。だが、もう口も胃も観念したのだろう。味わおうと思うのが間違いだったことに気が付いたのだろう。今度は30分で2カップを片付けた。あとは、チビリチビリお茶代わりに低脂肪乳を飲む。
(後でそのやさしい看護師さんに確認したら、カロリーが決まっているから、減らすわけにはいかないんだと。加減は自分でするしかないんだと。そうだったのか。まあお陰で、お昼は全部いただくことができた。)
やっぱり、わたくし和食の方がいいです。同じ流動食でも、薬品の臭いのしない和食というのはないのでしょうか。
ところが、ここに至り、ひょっとして私の考えは間違っているのではないかと感じてしまったのだ。
今は牛乳も薬品に感じてしまう。妻がわざわざ買って来てくれたボルヴィックのミネラルウォーターさえ苦いのだ。これはいくらなんでも変だ。
これでは、肉じゃが食っても、寿司食っても美味いと感じるどころか、薬品を感じてしまうのではないか。
私の体は、1ヶ月あまり薬品付けであった。栄養剤の点滴、抗生物質の点滴、痛み止めの注射、造影剤の注射、その他種々の注射などなど、私の体には種々の薬品が注入されてきた。
私の体は、すっかり薬品に置き換えられてしまった。薬品のお陰で生きてきた。このような薬品がなかったなら、私は痛みに耐え切れず、食事も取ることもできず、とっくにくたばってしまっているはずである。今ここに、平気な顔をしていられるのも、薬品のお陰である。
なんと私の体は、薬品を薬品と感じないで、逆に普通の食べ物を薬品と感じるようになっている。
おお、私の体はフィジカルコントロールされていたのか? SF じみてきた。考えるのはよそう。
(K先生によると、1ヶ月もの間に舌の感覚も衰えたためであろうとのこと。まあ、実際はそんなところだろう。)(2003.6.20-14:00記)
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− 冴えてきたのかな? −
今日からいよいよ、ちゃんと茶碗と器に盛られたお食事になった。
朝食は、3分粥、かぼちゃと玉葱の味噌汁、梅干1個、ぶどう丸ごと1房(100粒はある)、そして牛乳。大満足。
昼食は、3分粥、焼き魚の一切れとじゃが芋と人参のきんぴら、茄子と玉葱とこまつ菜のおひたしみたいなもの。一応満足。
朝食のときは久々の飯粒に感激して何の疑問も持たなかったのであるが…。
3分粥とはこんなものか? 茶碗はずっしりと重かったが、底5mmほどにかろうじて飯粒の形を留めたものが沈んでいる。 焼き魚とか、人参とかの固形物が食べられるのに、何故に飯粒が形を留めていてはいけないのかえ、説明してくれい。
でも、やっと人間らしい生活になった。元気がでてきた。頭も冴えて冷静に考えられるようになった。
原発性硬化性胆管炎(PSC)という病気は、1.5〜5万人に1人発病するもので、かなり珍しいものだそうである。
昨年度の年末ジャンボ宝くじの1等2億円に当たる確率は1千万人に1人であるから、それに比べればそう珍しくはない。4等10万円に当たる確率5万人に1人くらいのものである。
ただ、病気の発生原因が分からず、したがって治療法がないのだそうである。 治療法がないといえば、しょうもない駄洒落をいう私の持病も不治の病のようである。この病は周りの人を不幸にするだけなので困ってはいないのであるが、PSCは自分自身を不幸にするから困るのである。
同時に2つの不治の病を患っている人は、世界広しといえどもそう多くはいないと思う。 宝くじの1等2億円に当たった人くらいの人数しかいないのではないか。
そうすると、このような私が宝くじを買って1等2億円に当たる確率は、1千万分の1のさらに1千万分の1だから、1千兆人に1人という、超稀有な人物として何千年も歴史に残るかも知れない。挑戦してみようかな。
多くの励ましのメールをいただき、多いに元気付けられた。そのうち何人かの方々は、自分自身が医者から見放されるほどの大病を克服し、生還された経験をお持ちであることに驚かされ、また勇気付けられた。
医者から見放されるほどの大病を患い、そのままあの世に行かれた方のほうがずっと多いであろうが、幸いにもそのような方はメールを送ることが出来なかったせいかも知れないが、そのような方からのメールは1通もなかった。 (2003.6.21-13:50記)
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− うれしい朝の目覚め −
一日中、病室での生活である。といっても、体調がいいときは病気のことはすっかり忘れている。パソコンをいじくったり、数学的なことを考えたり、雑誌や小説を読んだりしている。
無意識のうちに今後のことを考えてしまうのは止むを得ないだろう。今朝、目が覚めてベッドでごろごろしていると、自然と考えが浮かんできた。
原発性硬化性胆管炎(PSC)という病気は、その発生原因が分からず、したがって治療法がない。最後の手段として臓器移植があるが、これとて相当の副作用、危険度があるということである。
このまま放っておいたらもちろんのこと、何らかの治療をしても、そう長くはないかも知れない、といわれている。だが、すぐにどうこうというわけではあるまい。なにしろ、症例が少なく、また個人差もあるから、ほとんど何も言えないらしい。
我々はみな、今日明日何があるかわからないで生きている。交通事故に遭うかも知れず、地震に遭うかも知れず、理由なき犯罪に遭うかも知れず、あるいはどこかから飛んできたミサイルに当たってしまうかも知れず。
生きているということは、今日明日あるいはいつか死ぬ確率を常に背負っているということなのである。
ただ、私の場合は、その確率にPSCで死ぬ確率が加わるというだけのことである。
ここまで考えて、閃いた。そうである。私がPSCによる分だけ確率が高いなら、その分だけ他の何かを減らせばいいのである。
ところが、私は何の努力もしないでも、他の部分は殆ど確率0にまで減っている、ということに気が付いてしまったのである。
私は一日中病室にいる。交通事故に遭う確率は0である。地震には遭うかも知れないが、病院の建物はそれなりに頑丈に作られているし、万が一怪我してもここは病院であるから、直ぐ処置してもらえる。ここにいれば理由なき犯罪に巻き込まれ殺されることもまずない。まさか、病院をミサイルで攻撃はしないだろう。
今日明日死ぬ確率は私の方が小さいのではあるまいか。皆さんには誠に申し訳ないことであるが、なんとなくうれしい朝の目覚めである。
問1. このような著者の考え方は、次のうちどれでしょう。
(a) 前向きな考え方である。
(b) 後向きな考え方である。
(c) 横向きな考え方である。
問2. 著者が言おうとしていることは、次のうちどれでしょう
(a) 自分は幸せである。
(b) 皆さんも日々を大切に生きてほしい。
(c) 何も言おうとしてはいない。
(2003.6.22-7:40記)
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− 今となっては悔やまれる −
40日も病室にいると、外の世界はずーと遠い昔のことのよう。ほんの2ヶ月前のことも、遠い子供の頃のことも一様に昔のことである。
田舎で過ごした子供の頃は、空気といい、静けさといい、鳥の声といい、にわか雨の臭いといい、ひどく贅沢な環境だったのだとしみじみ思う。
この季節、生まれ育った田舎の川面にはいっぱいホタルが飛び交っていた。 捕まえてはネギ坊主の中に入れていた。 いま思えば、ホタルには悪いが、ひどく贅沢なことをしていたものだ。
そのせいか、大人になって尻ではないが、頭部がひかりだした。
田植を終えた田んぼで、兄たちはゲロゲロ鳴く蛙を捕まえて、麦わらをケツにさして腹をふくらして遊んでいた。そういうことをしていたら大人になって、蛙の顔をしたお医者様に内視鏡を差し込まれ、腸にポンプで空気を入れられることになる。
私は兄たちの所業をそばで見ていただけであるが、同罪と見なされたのだろうか。 この度の検査でひどい目にあった。
あのとき、
「そんな残酷なことはおやめ。お腰につけたおやつのきび団子をあげるから、その蛙を僕にゆずってくれないか」
とか言って、そのあわれな蛙を逃がしてやっておけば、今頃は鯛や平目の舞い踊りを見ながら、鯛や平目の刺身を御馳走になっていられただろうに。今となっては悔やまれる。
妻からの報告によると、最近我が家で流行っていることががあると言う。
「そんなことはささいなこと」
というのだそうである。
子供の成績が多少悪かろうと、妻の料理が多少まずかろうと、そんなことはお父さんの病気に比べればささいなこと、となるのだそうである。 何か私の病気がうまく使われているような気もしないではないが、まあこの際許そう。 私の病気が役に立てて、おとーうさんはうれしいぞー。
ほんとうに健康で楽しく生きていさえしてくれればそれでいい、と思う。
本気でこのように思っている人間に父親業はともかく、教師が勤まるだろうか、ということはちょっと心配ではある。 (2003.6.24-13:00記)
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− 人生に無駄はありやなしや −
人生無駄なことないというけれど、人間何事も我慢というけれど、ほんとうに無駄な我慢ということはないのかな?
月曜日の造影剤を胆管に入れてのX線撮影の検査以来、また少し腹痛が続いている。人間ちょっとでも痛いところがあると、何もする気がしない。
看護師さんの、「我慢しなくてもいいですよ」 という言葉に甘えて、最近ではすぐに痛み止めの座薬を入れてもらうことにしている。20分後には楽になり、こうしてパソコンでもいじれるようになる。
最初のころは、少々の痛みは精神的忍耐力を付けるためにも我慢してやろう、あるいは、この痛みを耐えることによって何かが得られるかも知れないと、あほなことを考えていたが、ただじっとしていつまでも痛みを我慢していても何も得られるものではない。たとえ精神的忍耐力が付いたところで何の役に立つだろう。
どうしたら痛みを避けることができるかの方策を考えることこそ、頭を有効に使うというものだ、ということにやっと気が付いた。
我慢してみて、無駄な我慢だったことにやっと気が付くというところが、凡人の凡人たる所以である。
日常の生活でも、このようなことは数多くある。問題は、役に立つ我慢と、無駄な我慢がなかなか区別できないことだ。我々凡人は、我慢してみて無駄な我慢だったと気づく。
総じていうと、自分からは何もしないでじっと留まっているのは無駄な我慢。 自分の意志で我慢してやり続けるのは無駄ではない我慢、というところであろうか。
人生良いこともあれば悪いこともある、一生涯ではプラスマイナス零である、という考え方がある。そうでなければ同じ人間として生まれてきたのに不公平だ、と思う。
何の根拠もない考え方であるが、何か悪いことに遭ったときは、今度は必ず良い事があるはずだと思うことで、我慢してこれたのだ。
ここまで考えて、想い至る。
人生に無駄なことなし。なぜなら、良いも悪いもないのだから。自分で勝手に良い悪いを決めているにすぎない。あるがままである。
そうだからといって、痛みを避ける何の方策にもならないのが辛いところではある。
私の真面目な哲学的考察による崇高なる結論は、いつも何の役にもたたない。 やはり、人生には無駄な考察というものがあることの証明になっているのか? (私の不真面目で哲学的ではなく崇高でもない結論はもっと役に立たない、ということには気づかないでいただけたらうれしい。)
何やかやで、気が付いて見たらいつの間にやら40日余りも入院生活。自分でも信じられない。 まさか夢ではないかとほっぺたをツネってみようとしたが、ツネる手間も要らない。 ツネらなくてもおなかはうずいている。
問. 著者の言おうとしていることは、次のうちどれですか。
(a) 人生には無駄がある。
(b) 人生には無駄はない。
(c) 人生には無駄があるのかないのかよくわからない。
(d) 何も言おうとしてはいない。
(2003.6.26-11:20記)
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− 算数は大切 −
ひと昔前のことであるが、日本の天才といわれた数学者が晩年病に臥した。いかに天才の脳といえども、余命いくばくもなくなる時期になると朦朧としてくる。
医者から、自分の名前や今日の日付などを尋ねられたり、九九を言わされている姿は、涙なくしてはみられなかった、というような話を何かの本で読んだことがある。
天才数学者は、九九なぞは遠の昔に置いてきたに違いない。そのほうが似合う。
急に、
「1の段から9の段まで九九は全部でいくつありますか?」
と尋ねられたら、用心深い私なんぞは、慎重に考えて
「99あるから九九と言うのです」
と、御丁寧にも理由まで付けて恥をかいてしまいそうだ。
今日は一日中、腹が痛んだ。痛み止めのお陰でなんとかこうしていられるが、食事が取れない。
食事を取らないのに、食後の薬は飲まなくてはいけないのだそうだ。いつが食後になるのだろう。
それに、全部で5種類もある。1粒でいいものもあれば、2粒のもある。腹にも力が入らず、頭も朦朧とした状態で、数と種類を確認するのは大仕事である。
やっぱり、算数はしっかり勉強しといた方が、何かといいようだ。 (2003.6.28-19:30記)
訂正:薬は朝夕が4種類、昼が3種類であったと判明。また、この日は27日であった。なんだか心配になってきた。(2003.6.28-8:20記)
再訂正:薬は、昼は2種類であったと判明。 (2003.6.28-13:00記)
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− 自由なる精神? −
昨晩は、ちょと珍しい体験をした。
夕刻から、呼吸をする度に胆管あたりがチクチクし出した。 息を止めておけば楽なのだが、あるいはそうしておけばそのまま楽になれるかも知れないのだが、そういうわけにもいかず、痛み止めの注射を打っていただいた。
5時間後、注射の効果が切れそうになっても痛みそうだったし、ちょっと高熱がでていた。これでは寝られそうにない。 痛み止めの注射は即効性に優れ非常に良く効くが、それだけに強力すぎて他の薬が効かなくことなどもあり、続けて打つことは避けたほうがいいそうである。 看護師さんが座薬の痛み止めを入れてくださった。
座薬のお陰で、1時間後には汗をかき熱も下がってきたようである。着替えてまた寝転んで目を閉じていた。
しばらくして、急に身体が無くなった感覚に包まれたのである。一瞬何が起こったのだろうと思う。
『まさか、私の魂が私の身体から抜け出たのではないだろうか』
私は、あわてて目を開けて自分の身体を確認したのである。意識ははっきりしている。身体に異常は無い。
急に、身体全体の痛みが引いたためらしい。体験したことがないくらいの幸福な気分である。
再び目を閉じた。 ”自由になった精神” の至福の時である。
私は視点を自由に動かし、自由な空想に浸った。 だが、このまま目を閉じていたらいけないのではないかという不安で、たびたび目を開け、手足を動かして、自分の身体の存在を確認したのであった。
自由なる精神、 あるいは、 精神の解放、 というような大げさなことを言うつもりはないが、何かを暗示させるような私にとっては初めての体験であった。 (2003.6.28-21:15記)
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− 便所で力学 −
ニュートンは、庭の木からリンゴが落ちたのを見て、万有引力を発見したという。
ニュートンだって毎日便所に行っていただろうに、どうして自分のウンチが下に落ちる度々の体験から万有引力を発見しなかったのだろう、何故わざわざ庭のリンゴなのだ、という疑問は残る。
私は、便所で力学の問題を作ってしまった。
そのとき、トイレットペーパーが落っこちたのである。ペーパーを引き出そうとしたら、こともあろうに丸ごと外れて床に落ち、70cmばかりほどけて転がった。
普段なら、ホイと拾えばよいだけのことであるが、私の今の状態では情けなくもそれができないのである。身体に管がつながった状態での体の移動もややこしいが、それ以前にとてもそんな元気はない。
幸いにも、ペーパーの端は手に握っている。ところが、これを引っ張ったら余計にほどけて、本体は遠くに逃げた。
これには困った。神(紙)は私を見放したか。そんなありふれた洒落を言っている場合ではない。
引っ張る角度がいけないのかと思って、洋式便座に座ったまま、出来るだけ頭(こうべ)を垂れて手を下にして引っ張ったが駄目である。 傍目(はため)にはお祈りの格好である。 ここまでしても、お許しくださらないか。 やはり、格好だけで気持ちが入っていないことをお見通しか。
どうも引っ張る速度も問題のようだ。慌てないでゆっくりゆっくりまさに祈る想いで引っ張って、やっと救われたのであった。
そこで、次の問題を作った。
【問題】 巻きつけらた本体の部分の質量がm(kg)、半径がa(m) の円筒形の紙テープがある。図のようにテープの端A点を、水平とのなす一定の角θ の方向に一定の力F(N) で引く。テープと床との間の静止摩擦係数をμとするとき、テープがほどけないで引き寄せられるための、条件式を導け。
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大学初年級の力学の問題として使えそうだ。 もちろん、病院の便所で作った問題だということは伏せておこう。 模範解答を作る元気は今の私にはないのが残念である。(2003.6.29-22:15記)
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− 単発性硬化性狭窄脳炎による思考 −
狭い閉じた病室での生活が一月半も続くと、考えることは単一的になる、考え方は柔軟性をなくす、視野は狭くなるのはなんとも致し方がない。 勝手に名付けて ”単発性硬化性狭窄脳炎”。
自覚症状はないが、進行しているのは明らかである。であるが、思春期のように何もしないで、本当にやりたいことはなにか、というテーマに結論を出すことはできまい。
ぼちぼち、単発性硬化性狭窄脳炎を意識しつつ、結論を出すための考察でもするか。
【仮説1: 事の価値に関する仮説】
事の価値は、それを行う困難度と人に及ぼす影響度により定められる(下図)。
事Aと、事Bがあるとする。これらについて、行う困難度、および人に及ぼす影響度は、それぞれ図に示されている位置で定められているとする。AはBに比べて、困難度は大きいが影響度は小さい。
事の価値は、その事から赤直線に垂線を下ろし交わる点で与えられる。したがって、AがBより価値は高い。
【仮説2: 人の評価に関する仮説】
人の評価は、携わる事の価値によって行われる。
事の評価に関して、考えるべきことは3つある
1つ目は、影響の善悪を何を基準にして行うか、そして、影響の大きさをどのように測るか。
2つ目は、事を行う困難度をどのように決めるか。
3つ目は、価値直線をどのように引くか。
事を行うには、どのような能力(知識、技術、体力など)を必要とするか、また、この能力を修得するにはどうすればよいのかということも、考えるべきことである。
おもしろいことに、必要な能力というものは、個々に関する知識、技術などは別にして、そのかなりの部分を事の違いによらず共通にするという事実である。したがって、全く畑違いの分野の話を聞いて、結局やってることは同じことではないか、という感想を持つこともよくある。
一般の我々が日々行っていることは、事を行うために必要な能力を修得すること、また、修得した能力で事を行うことである。
多くの人々に重大な影響を及ぼす事であればあるほど重い責任があり、したがって大きなプレッシャーが掛かる。そして、そのような事を行うことができるのはその人しかいないとなると、その人はもてはやされる。というシステムである。
このようなシステムに組み込まれるか。組み込まれないか。まずは、このあたりから考えることから始めるか。今日はここまで。
明日7月2日(水)午後、外科の方に転科が決定。(2003.7.1-11:00記)
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− いよいよ外科へ −
入院して、今日でちょうど50日目。やっと腹部の痛みも完全に取れた。
今日で内科ともお別れである。数え切れないほどの種々の検査を受け、かなり痛く辛い思いもしたけれど、主に関わってくださった先生5名、看護師さん14名、その他多くの方々に親切にしていただき大変お世話になった。感謝。
午後1時、内科に入院したとき担当していただいた看護師さんに荷物を載せたワゴンを押していただき、私は点滴と胆汁の管をつけたままだが歩いて、渡り廊下を通って外科にやって来た。
外科は新築されてまだ1年。とてもきれいだ。病室は4人部屋であるが、各病室にはトイレ、洗面所が付いている。壁の色も明るく床も板張り、ベッドも電動式で快適だ。窓際でないのが唯一残念。
食堂は明るく、ラウンジもなかなか見晴らしがいい。外科の看護師さんもやさしく親切だ。
入れ替わり立ち代り、私を担当していただく外科の先生方が来られ、今までの状況や現在の状態を尋ねられる。やさしそうな先生方で安心する。
外科病棟は、内科病棟とは同じ病院とは思えないくらい何もかもきれいだ。今日はどこも痛まないので気分がいいせいもあるが、建物の設備環境が気分を変えるということも事実だ。
病室にトイレと洗面所が付いているというのは、予想以上にありがたい。元気ならともかく、歩くのもきつい状態のときはとても助かる。
またちょっとした検査があって、いよいよ手術ということになるだろう。だが、これからは快方へ向けての治療だ。頑張りがいがあるというものだ。(2003.7.2-17:30記)
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− 便りのないのはいい便り −
おかしなことに、体の痛みを感じなくなったら、書きたいという気にならない。
昨日から腹痛も完全にとれた。胆管の炎症も治まったのであろう。人のものとは思えないような緑掛かった胆汁の色から、きれいな黄色になった。
お陰で、息をするのも歩くのも問題なく、そしてなにより食事を楽しめるようになった。このような日は何日振りだろう。次の検査に入る前の束の間の安息日である。
本を眺めたり、考え事をしたりする気力も出てきた。
おかしなことに、表現したいという気にはならないのである。外科に移ってきて、同じ病院なのに内科でのやり方とは微妙に違うことのおもしろさとか、外科で担当してくださる先生方の中で、自ら
「私は、一番下っ端のSです」
と紹介された体育会系風のS先生のこととか、話題はないことはないにもかかわらず、書こうという気にならないのである。
痛みの状態の中で書くことに慣れすぎたせいかも知れない、と変なことを思ったりしている。
更新されないときは、便りのないのはいい便り、と思っていただきたい。
問. 上の文章は、著者の願望を込めて工夫されています。それは何でしょう。 ( 答 )
(2003.7.3-16:20記)
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− 先送りの人生を望みます −
言葉をしゃべり始めるのが、遅かった。私が満2歳になったころ親父は病気で亡くなるのだが、まだ何もしゃべろうとしない私を心配していた。
いよいよご臨終ですという時、親族一同が親父の枕元に集まり、
「おとうさん、というてみい」
と私をせかした。 せかされた私は、
「おとうさん」
と言った。それで親父は安心して逝ったという、泣かせる話が伝えられている。
そのとき、もし私が言葉を発していなかったら、あるいは発したとしても
「おじいさん」
と言っていたら、髪の毛の少なくなった親父を永久に安心させることもなく、親族一同を安堵させることもなく、私も後々まで大きな悔いを残すことになっていただろう、と思うとぞっとする。 我ながら、状況をよくわきまえた賢い子供であったものだと思う。 ひょっとして、親父の死をドラマチックに演出するために、1年も前からこの日までじっとしゃべるのを控えていたのではないか、とさえ思う。 いくらなんでもそれはないか。
言葉をしゃべり始めるのは人より1年も遅く、就職と結婚と車の免許取得は人より10年も遅い人生を送ってきた。何事も先送りの慎重に慎重を期した人生設計なのである。
そのはずであったのに、設計者はどこでどうお慌てになられ、お間違えになられたのか、大病だけは51歳の若さに持って来られた。 本人に何の相談もなく、何の備えをする間も下さらないで。
何も考えないで適当に好きなことをして生きていることを戒めるためであろうか。そうなら、設計者は神様か仏様かどなたかは知らないが、
「恐れ入りました。さすがよくお見通しでござる」
と言わざるを得ない。単なるミスか、あるいは偶然かも知れないが。
今日はどこも痛むところはなく元気そのものである。検査もない。 こんな日は病院でも楽園である。 夕刻、面会に来てくれた妻は、この病室でのゆったりした時間の流れに溶け込めない、と言っている。外の世界は、今日も慌ただしく動いているのだろう。何を求めてか。何故か。
できることなら最初の設計通り、すべての人生行事を、特に死を、先送りのままにしておいていただきたいものだ。 それとも、あの世が人材不足なのだろうか。 (2003.7.4-18:10記)
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− 願い事 −
明日は七夕様。
子供の頃田舎で、2本竹を切ってきて短冊を飾り、庭先に2mくらい離して並べて立てた。その間に棒を渡してそこに紐でくくった野菜などをぶら下げた。 そして短冊の下にむしろを敷き、寝っころがって蚊に刺されながら星を眺めたものである。
短冊に願い事を書くことを、いつだれが始めたのか知らないが、願わずにはおれないほどに、人間には苦悩が多く、自分ではどうすることもできない事で満ち満ちているということであろう。
流れ星を見たら、その間に願い事を三回唱えれば願いが叶うという。人間界をお造りになった天の神様が、ときどき様子を見るため重い扉を開けて下界を覗かれるらしい。そのとき扉の間から漏れる光が流れ星。だから、流れ星が出現したときは扉が開いているときなので願いが届く、という理屈である。三回も唱えさせられるのは、あまり多くを望んでもらっても困るということの戒め。
私の場合だと
「毛がほしい。毛がほしい。毛がほしい」
これなら、充分唱えられる。 毛とは、もちろん頭の毛のことである。 暇はないから頭は省略せざるを得ないが、神様もそのあたりの事情はお察しくださるだろう。
無信心であるから、神社にお参りしても、あつかましくも何かをお願いすることは一切しない。手を合わせ感謝するのみである。 だから、お賽銭をあげなくても罰はあたらないと思う。
ちなみに、なんでも願い事は、自分の願い事より、他人のことを願うと優先的に叶えていただける、ということを、ゆめゆめお忘れなく。
全人類 (もちろん私も人類) が末永く幸せでありますように。
私の妻が悲しむことがありませんように。 (2003.7.6-12:35記)
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− あなたは何に価値をおいていますか −
よかひよかときは、本名の人物のハンドルネームである。職場での本名の人物しか御存じない方は、よかひよかときが同一人物とは信じがたい、と言われることもしばしばある、と本名の人物が言っていた。(なんだかややこしいな。)
よかひよかときが言うのもなんであるが、本名の人物は見かけ通りの極めて常識的な真面目な人間である。
ところが、よかひよかときという人物は、科学的な価値観を基本にしている。 このことが、傍から見たらおかしくもあり、救いようがないように見えるのかも知れない、とよかひよかとき自身は思っている。
よかひよかときの言う科学的な価値観とは何か。なにより、真理を価値の第一におく、ということ。
何かの役に立つか立たないかは問題ではなく、ただ自然の原理、人間の生きる原理のみを知りたい、ということ。(もちろん、現代はそれでは通用しない世の中であることは明らかである。)
真理の前には頭(こうべ)を垂れて謙虚にならざるを得ない。真理の前には全ての人は平等にならざるを得ない。ごまかそうとか、得をしようとかは思う必要がない。
もちろん、真理のみが価値ではない。善もある。美もある。愛もある。その他にもある。
だが、真理のみを価値とした生き方でも、なかなかの生き方ができる、と考えている。 寂しくもなく、ものに動じることもなく、心豊かに、楽しく、そして他人から煙たがられることもなく生きられる。
ただ、真理を価値の第一におくと、たとえば、次のような言葉は出てこない。
「苦しみが心を育てるのだ。だから苦しみからけっして逃げず、勇気をもって立ち向かうことだ」
「周りの人たちを大切にしよう。一人で生きているのではないのだから。一人で生きては行けないのだから」
「愛しているよ。 愛の証に宝石をプレゼントしよう」
だから、傍から見たら救いようがなく見えるかも知れないことは、容易に想像がつく。
真理もある。善もある。美もある。愛もある。その他の価値もある。それらがほどよく自然に身についている人こそ、魅力的な人間、豊かな人生なのであろうか。(2003.7.6-17:20記)
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− 叩けよ、さらば開かれん −
人は時に、一言に勇気づけられることがある。
「叩けよ、さらば開かれん」
高校を卒業したら就職するつもりだった。3年生になって、銀行、交通機器を作る会社、公務員試験などを受けたが思うようにいかず、秋になった。その頃から、大学で物理学をやってみたいと思うようになった。
もう就職はしたくない。大学で物理学をやりたい。そう思ったら居ても立ってもいられない性分である。だが、自宅での勉強は一切したことはなかった。補習授業なども受けたことはなく、模擬試験も一回も受けたことはない。大学に受かるはずもない。
新聞を何気なく開いた。密かに行きたいと思っていた大学の広告が目に留まった。そして、学長だったか、学部長だったかは忘れたが、その人の言葉の中に、「叩けよ、さらば開かれん」 が引用されていたのである。
「よし、今からでもできるだけのことをやってみるか」
もう10月。入試まであと5カ月しかない。学校に行って呑気に授業を受けている場合ではない。
数学はちょっと古いが兄が使っていろいろ書き込みがしてある参考書一冊、物理は一番難しそうな解説付きの問題集を一冊購入、英語は学校で買わされたが殆ど開いたこともなかった参考書一冊、この3冊に絞った。これを何回も何回も繰り返したのである。国語と化学はあまり興味もなく何をしたらよいのかもわからず殆どなにもしない。
朝、布団から起き上がったら、疲れて寝るまで、飯と便所以外はそこに座りっぱなしである。何日もそういう生活である。夜、周りが寝静まると、柱時計のコチコチという音が異常に大きく聞こえてきたり、部屋の中の障子や壁と話ができるような感覚に襲われたりした。何かに没頭するということはこういうことであろうと思えた。また、なにか自分に今まで眠っていた感覚が今眼を覚ましたような気がして心地良かったのである。
何回も繰り返してやっていると、見えてくるものである。学校でこんなことを学んでいたのか、数学や物理学の体系はこのようにきれいに作られていたのか、などと改めて驚いた。
一所懸命にやることの充実感、知ることの面白さ、また、勉強というものは結局教えられるものではなく自分でやらないとだめだ、ということを知ったのであった。
「叩けよ、さらば開かれん」 何事にせよじっと待っているのではなく、積極的な態度・心構えをとれ、という意味である。これが新約聖書の一節であったことを知ったのは、ずーと後のことである。(2003.7.9-12:00記)
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− 医者に好かれてほーいほい −
このところほとんど毎朝、採血である。 今年1年目の「一番下っ端」のS先生が、試験管のような容器に何本も取っていかれる。
「学生のときは怖くて結局針がさせなかったんですよ。 医者になって初めてできるようになりました」
と体育会系の風貌に似合わないことをおっしゃる。血を見るのが好きな人より、このような人の方が、将来は立派な外科の先生になられる気がする。 血管の具合によっては、やりにくい患者さんもいるとのこと。
「よかひさんとは、相性がいいみたいです」
お医者さんに好かれるのも良し悪しである。今朝は、6年生の学生さんが一人で、「採血をさせてください」 とやって来られた。S先生から、一番やりやすい私のところに行けと言われて来られたそうである。
血管を浮き出させるために、昔ながらのゴムチューブで腕を縛る。こんなことでさえ、傍からみているとそう違いはないように見えても、ベテラン(?)の患者には初心者かどうかはすぐに分かる。無事終えて
「よかったです、失敗しなくて。ありがとうございました」
礼を言われてしまった。私も、こうしていても立派に世の中のためになっているようだ。(2003.7.11-08:20記)
今日から個室に代えてもらった。窓の外は梅雨模様だ。ビルのすぐ上を着陸体勢に入った飛行機が低空飛行でゆっくりと動いていく。ビルとビルの間を新幹線が流れるように進んでいる。ぼーと一日眺めて過ごすにはなかなかいい風景だ。
明日は外出を許可してもらった。2ヶ月ぶりの我が家になる。(2003.7.11-22:00記)
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− 2ヶ月ぶりの我が家 −
今日一日外出を許可してもらった。およそ2ヶ月ぶりの我が家である。
何があるというわけではないが、やはり我が家に勝るとこなし。2ヶ月前と同じところに同じようにいるべき人がおり、あるべきものがあるのはうれしい。昼飯を久々に家族と食ったが、胃袋が小さくなっていてすぐ満腹になるのが残念だ。
2週間前から、自宅のインターネットが繋がらなくなってしまったとのこと。娘らは、ネットができない生活は考えられない、というわけで自分たちでなんとかしようと、マニュアルをみたり、NTTに電話したり悪戦苦闘したらしい。だが、マニュアル通りにいかず、父の帰りを待っていたのである。
私がやっても3時間もかかってしまったが、ネット接続に成功。父の有り難味がこれで少しは身にしみたかな。
”親孝行、したいときには親はなし” とはよくいったものだ。 私自身、親の気持ちのことなど親が生きているときには考えてみたこともなかった。しかし、それは自然なことなのだ。自分のことを考えることで精一杯のはず。
すくなくとも、第一の勉学の時代は自分のために思うように生きることだ。 第二の勤労の時代は、自分の思うようにはいかないことも多いが、その中にあって自分らしい生き方を貫こう。
三番目の兄から、カセットテープでの便りをもらっていたのだが、病院では聞くことができなかった。自宅のテープレコーダーで聞いた。エンビ・クラブ(塩化ビニール管尺八クラブ)を結成したとのこと、水道管で作った尺八を吹くのだそうだ。なかなか味のある 「浜ちどり」 などが吹き込んであった。この冬には、水道管リサイクル(リサイタル)をやる予定だそうだ。ただ、塩化ビニールの水道管なので、サビは出にくいそうだ。
定年後の第三の人生は、人のために何かしたいと、「けん玉」 や 「折り紙飛行機」 を地域の子供に教えたり、既にいろいろ活動をしているらしい。我らの兄弟にあっては一番まっとうな生き方だなあ。
やはり家にいれば、顔に生気が戻る。家族というものは、顔は見えなくても同じ屋根の下にいることの気配が伝わってくる。
(2003.7.12記)
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− 一日一日を大切に生きるには? −
死を頭でしか考えたことがない状況でいろいろ考えたことに、果たして真実があるのだろうか。
一般的には、死を頭でしか考えたことがない状況で考えたことこそ、真実である。なぜなら、そうでないと物事は客観的に捉えられないからである。
だから、災いが自分に振りかかってくる前に、真面目に真剣にいろいろなことを自分の頭で考えておかなくてはならないのである。自分に直接関わってきてからでは、どうしても自分に都合のいいようにしか考えられないのが人間である。
一般的には、そうであろう。だが、今までの生き方、そしてこれからの生き方を考えることに対しては、私のようなどうにも鈍感な人間でも、死を意識した状況では多少なりとも真剣味が加わるのではないか、いやそうあってほしいと期待する。
結局、今までのいろいろな検査を総合して、肝臓あるいは胆管の手術はできないということである。原発性硬化性胆管炎(PSC)の症状が予想以上に進行しており、また胆管癌もある状況では、手術は却って命を縮めるという判断である。もちろん、癌がある状態での、免疫抑制剤を使用せざるを得ない肝臓移植は問題外である。
今度の火曜日、胆管が十二指腸につながる部分で、硬化狭窄して胆汁が流れにくくなっていたところに、人口管を通す処置を行うことになった。内科に入院した初期の段階で、試みてうまく行かなかったERCTである。
ERCTが成功したら、退院してとりあえずは元通りの普通の生活ができるのである。後のことは誰にも分からない。後のことは誰にも分からないのは、生きている人間すべての人に言えることである。
「一日一日を大切に生きていこうね」
妻の私の顔を見るたびに発する心からの言葉である。
「そうだな、私の肝臓と胆管によく言い聞かせておこう。 おい、一日一日を大切にしろよ。 胃も腸も隣り近所なんだから助け合って生きていけよ。 盲腸は暇そうだな、何か肝臓の助けになることはできないのか。君らの命も、肝臓と胆管に依っているんだからな」
当の私はというと、一日一日を大切に生きるとはどういうことか、これから真面目に真剣に考えることから始めなければならない。図らずも、真面目に真剣に考える状況だけは整えていただいたような気もしているのであるが、一日一日を生きながら、その一日一日を私は大切に生きているかな、どうかな、と常に振り返り振り返りしながら息をしなくてはならないのだろうか。どうにも息苦しい気がするのだが。
問1. 一日一日を大切に生きるとは、どういうことでしょう。
問2. 一日一日を大切に生きるには、どうしたらいいでしょう。
(2003.7.13-23:10記)
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− 世界の人口が1人減るだけではなさそうだ −
「もしお父様が死んだら、世界はどのように変わると思いますか?」
と小学生の娘がいう。
「そうだなあ、私のような重要人物が亡くなると、世界は大きく変わるだろうなあ」
すると、娘は
「ちがいます。もしお父様が死んだら、世界の人口が1人減ります」
そのようなナゾナゾを出していた下の娘も、もう中学生になった。
小石を斜め上方に放り投げれば、何秒後にどれだけの速度でどこに落っこちるかは、小石を投げた方向と速さがわかれば、正確に計算できる。小石の運動は、ニュートンの運動方程式にしたがうからである。すなわち、小石の未来が100%の確率で予測できるのである。
一般に、宇宙ができたときの初期条件がわかり、ニュートンの運動方程式が解ければ、我々一人一人のことも含め、宇宙で起こることはすべて分かる。実際は、初期条件が分からないし、運動方程式も解けないから分からないだけであるが、原理的には、この世のことは、宇宙が誕生した瞬間に何もかもが決まっているのだ、という考え方がある。 これを、「ラプラスの悪魔」という。
ところで、小石を投げる方向、あるいは速さをほんの僅かだけ変えたとしたら、すなわち、初期値の僅かな違いがあったとしたら、落っこちるときの状態は、ほんの僅かだけしか変わらない、ということができる。
ところが、初期値の僅かな違いが、十分な時間の経過の後には非常に大きな状態の差となって現れる、ということが、身の周りには数多くあるということがわかってきたのである。
”北京の蝶” という話がある。
北京の街を飛ぶ一匹の蝶の羽ばたきが、1か月後のニューヨークの天候に影響する、というものである。
ごくわずかな初期値の差が、十分な時間の経過の後には非常に大きな状態の差となって現れる。
という例えであるが、いたって科学的な理論なのである。
蝶の羽ばたきでさえも、数ヵ月後の天候に大きく影響するのである。ましてや、我々一人一人がするささいな呼吸、動作、行動、さらには、ものの考え方など、一挙手一党足が、この世に大きく影響している、ということは事実である。
宇宙すべてのものが互いに影響しあって、この世を作っているに過ぎないのであるが、ものは考えよう、使いようで、このように考えれば、自分の存在意義を感じることができる。すくなくとも、”世界の人口が1人減る” だけではない、という気休めにはなる。
ここまでの話なら、「ラプラスの悪魔」 はまだ生きている。すなわち、我々一人一人のことも含め、宇宙で起こることはすべて定められていることに変わりはない。
ところが、計測で粒子の位置を決めようとすれば速度があいまいになり、速度を決めようとすれば位置があいまいになるという、「不確定性原理」 がある。この原理により、ラプラスの因果律にもとづく決定論的世界観は否定されることになる。すなわち、ラプラスの悪魔は存在しなかったのである。
また、「不確定性原理」 が 「北京の蝶」 の理論と結びつくと、一寸までのことはともかく、一寸先のことは原理的に分からない、ということになる。
すなわち、この世のこの先のことは、神にも仏にも分からない。これがこの世の原理として、神や仏を信じている人たちにも信じられている。(2003.7.14-16:40記)
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− 幸運は気迫 −
4番目の兄からの便りである。ある委員会の初会合で、次のような自己紹介をした ”つわもの” がおられたとのこと。
『私は肝臓ガンで4回手術をし、最後は40個のガンができて医者が見放したのですが、直りたい一念で抗がん剤を患部に直接投与しておりましたら奇跡的にガンが消えたのです。そのタイミングで生体肝移植して生還しました。まず病気はなんとしても治すという気迫が大事です』
理論的に考えたら眉唾ものであるといわざるを得ない話である。だが、病気に関しては、それが難病であればあるほど思いもよらないことが起こるのである。
2番目の兄からの便りである。
「私も、15年前胃の全摘出手術を経験しました。私を病院に送り込んだ先生が言うには
『わたしの診断で早期手術をしたために、7年間も生き延びたやつもいた』
7年どころか15年もたった。まだまだいけそうです」
最新の医学、優秀な医者をもってしても、まだまだわからないことだらけであり、思いもよらないことが起こるのは、日常茶飯事の事実なのである。
冷静に数学的に考えれば、
1.難病であればあるほど思いもよらないことが起こる確率は高い。なぜなら、病気の原因が分からない、処置の仕方が分からない、何もかも分からない。したがって、治ることも含めて、何が起こるかも分からない、のである。幸運にもというか、私の病気は難病なのである。
2.担当医が藪医者であればあるほど、思いもよらないことが起こる確率は高い。優れていればいるほど、思いもよらないことが起こる確率は低い。残念ながらというか、私の担当医の方々はこれ以上望むべくもないほど優れた方々なのである。
なんだか、何が幸運で、何が不運なのかわからなくなってきた。ただ言えることは、「病気をなんとしても治す」 という気迫が必要条件であることは間違いない。
今日は午後、ERCT(内視鏡的逆行性胆管造影)による人口管 (ステント) を入れる処置。頑張ろう。(2003.7.15-11:00記)
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− もう一度だけの機会 −
「病気をなんとしても治すという気迫」 は 「治療がうまくいく」 ための必要条件であるが、十分条件ではなかった。
昨日のERCTによる人口管 (ステント) を通す試みは、3時間以上もかけて努力していただいたらしいが、どうにも胆管が細く硬くなっていて、うまく行かなかった、ということであった。
今回は、眠たくなる薬がよく効いて、私自身は胃カメラを飲んだのさえ記憶にない。ときどき目が覚めてうつろな状態で、先生方の足元が見え、なにやら話し声が聞こえていた。やけに長いなあ、長いなあ、とは感じていたが、午後2時半頃から始まって6時近くまでかかったらしい。
気がついたのは、夜中の9時。その間に妻が来てくれたらしい。灯りの点いていない暗い病室で、酸素マスクを付けられ姿勢正しく寝かさていた私をみて、びっくり仰天したらしい。私が目を覚ましたときは、妻の書置きがあった。
「まずは、息をしていたから一安心」
結果がうまくいかなかったショックよりは、昨日の朝から飯を食べていないため、今日は完全なエネルギー不足である。なにしろ私の体には全く貯金がないその日暮らしだから、一食でも抜かされると元気がなくなる。妻のおなかの脂肪がうらやましい(ここの部分本人の許可を取ってあります。最近の妻はなんでも許してくれる。感謝。)。
明日は、肝臓の近くに胆汁を取り出すために刺している針を伝わって、さらに下の十二指腸まで伸ばして人口管 (ステント) を通す試みである。すなわち、PTCDによるステントを通す処置。下からはステントが通らなかったので、今度は上からステントを通そうというのである。
このところ、いくつかある可能性のうち、一番灯りの暗い道、一番困難な道を選んで歩かされているような気がしないでもないが、ここまでくると妻と一緒に笑ってしまうしかない。
私:「今ジャンケンでもしたら、10回続けて負けるような気がするよ」
妻:「やってみようか」
1回目は負けたが、2回目には私が勝った。
度々のステントを通す試みに対して、私の胆管はかたくなにも絶対通さない態度を取っている。 優柔不断なくせに言い出したら頑固なところは、私の胆管ながら見上げたものだ。私以上に根性があるのは認めよう。だが、いい加減に説得に応じないと、命取りになるぞ。明日、もう一度だけ機会を下さるそうだ。(2003.7.16-20:40記)
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− 火星超大接近 −
夜中のちょうど0時に目が覚めた。 部屋が明るかった。 東の窓から差し込む月灯りのせいであった。月の近くにかなり大きな赤い星がある。あれは火星ではなかろうか。そういえば、今度火星と地球が大接近するはずだ。
早速インターネットで調べてみると、かなり大きくなった火星に間違いない。8月27日、今世紀最も地球に近づき、そのときの明るさは−2.9等星だそうだ。今でも−2.5等星の明るさだ。
問. 地球の直径を1mmとしたら、太陽はどれだけの大きさで、どれだけ離れた距離にあるか。
地球の直径を1mmとすると、太陽の直径は約11cm。太陽と地球との距離は約12mも離れている。 1年間かけて太陽の周りをぐるっと一周する。 我々人間は、この小さな地球に乗っかって、泣いたり笑ったり愛したり戦ったりしながら、これを何週かして一生を終えるのである。
地球も火星も一つの焦点を太陽にした楕円軌道である。地球は365日で、火星は687日で太陽の周りを一周する。そのために、地球と火星は2年2ヶ月ごとに接近するが、大接近するのは15〜17年に一度である。ただし、今回の大接近は、57000年ぶりの超大接近である。地球と火星との距離は、太陽と地球との距離の約3分の1になるという。
これから晴れた夜は一晩中見られるから、地球上のことは忘れて見よう。
天気のいい日に畑を耕し、家族とカラスが食べる分だけの野菜を作り、雨の日は雨を眺めて過ごす。
季節を感じ、天気を感じ、太陽の恵みを肌で感じる。 できることなら、こんな理想的な暮らしがしたい。
その前に、今日のPTCDによる人口管 (ステント) の処置がうまくいくかどうかだ。 頑張ろう。 といっても私は、今回も最初から強い眠り薬で寝かされているだけらしい。 スタッフの方々を信頼しお任せする。(2003.7.17-12:05記)
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− まずは一安心、感謝 −
妻とのジャンケンで、2回目には私が勝った。まだ私にも運が残っていた。
スタッフの御尽力のお陰で、右側の胆管から総胆管を通り十二指腸まで、人口管(ステント)を入れることに成功した。
痛み止めの薬はもちろんであるが、強い眠り薬も使って、最初から眠りの中で処置が行われると思っていた。ところが、処置台に寝かされ、酸素マスクを付けられた私に、担当のお医者様はおっしゃった。
「度々、息を吸って、はい留めてください、の指示を出しますから、眠ってもらうわけにはいきません。痛み止めを使いますから、そう痛くはないと思いますよ」
話が違うではないかと思ったが、ここまできたら従うしかないではないか。 うう…。
お陰で、痛い思いをしながら、何が行われているのかをはっきりした頭のままで理解できた。
当初の予定では、右側の胆管から総胆管を通り十二指腸までステントを入れ、さらに左側の胆管に針を打って、同様に左側の胆管からも総胆管を通り十二指腸までステントを入れる、とのことであった。 だが、左側の胆管は、まだPSCの症状がそんなに進行していないので、針をどこに打てばいいか目標が定めにくい(エコーでは、正常な胆管は見えにくいため)ので、とりあえずは左側は何もしない方がよかろうということになった。
とにかく、右側の胆管にステントを通すための、1時間余りの処置が無事終わった。その後も、大した痛みや熱も出ない。 一安心である。感謝。(2003.7.18-09:40記)
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− 並列よかひよかとき法 −
左側の胆管にも針を刺し、PTCDによりステントを入れた方がよい、来週火曜日に行いたい、という説明があった。
おなかを静止させておく必要があるから、今回も、もちろん眠らせてはくれないだろう。まあ、今度こそ最後の処置だと思って頑張ろう。
内科で初めてのPTCDを行ったとき、妻は処置室の外までついてきてくれた。外にいてもスタッフの声が聞こえ、処置室の中の様子がよくわかる。私の痛みを自分の痛みとして感じ、早く無事に終わることをひたすら願っていてくれていたらしい。
ありがたいが、妻が外で痛がってくれても、私の痛みはそんなに薄まるわけではないし、却って私が辛いから、次回からは処置室の前にはいないように言った。
一昨日の処置の際は、初めの方の痛くないエコー検査の間は、看護師さんがついていて
「大丈夫ですか? 痛かったら言って下さい」
と度々声を掛けて下さっていた。他にも4人の見習い看護師さんが室の端っこに並んで見守っていた。
ところが、痛いPTCDの処置になった頃には、看護師さんたちは皆どこかに行ってしまわれていた。もちろん、手を握っていてくれる人はいない。 4、5回ではあるが、10秒くらい続く強烈な痛みのときは、息を留めたまま
「ううううううう…」
とにかく耐えるしかない。
ところで、妻のお産に夫が立ち会う方法があるという 。夫が妻の手を握って励まし、自分たちの子がこの世に出てくるときの感激を夫婦で共に分かち合うという。
確かに、愛する人、信頼できる人に手を握っていてもらえれば、痛みが薄らぐということは事実である。
原理 : 愛する人、信頼できる人に手を握っていてもらえば、患者の痛みが薄らぐ
しかし、ただ痛い病気の治療のとき、愛する人にそばにいて痛がってもらっては、こちらが辛いことになる。 ここは、やはり信頼できるプロの看護師さんに手を握っていていただく方がいい。
上図 (a) は、中学理科で習ったように、電池で電球を灯す回路である。電池に蓄えられているエネルギーは電球で消費され減少する。 ここで、電池を痛がる患者、電池のエネルギーを患者の痛みの量、電球を信頼できる看護師さん、で置き換えてみるのである。
愛する人の場合、愛する人が痛がるとそれが患者にはね返る。だから、図 (b) のように、愛する人は蓄電池 (コンデンサー) で置き換えることができるだろう。
さて、電池でいくつかの電球を灯すとき、直列につなぐ方法と、並列につなぐ方法がある。ひとつの電球について、どちらが明るいかというと、並列のほうである。すなわち、並列のほうが電池に蓄えられているエネルギーを早く使い切る。
ここでも、電池を痛がる患者、電池のエネルギーを患者の痛みの量、電球を信頼できる看護師さん、で置き換えてみるのである。
もう私の考えがお分かりであろう。すなわち、患者が激しい痛みを伴う検査や治療の際は、「直列立ち会い法」 より 「並列立ち会い法」 がより有効であることを提唱したい。
患者の右手と左手を、妻を除いて、信頼できる(手の空いている)看護師さんに握っていてもらうのである。これを、「並列よかひよかとき法」 と名付ける。 一晩寝て考えたこの案、やっぱり没かな。 (2003.7.19-06:30記)
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− タネもシカケもある体 −
病院では、体温と脈拍数を測り、記録してもらうことは日課である。
時々、体温と脈拍数を予測してぴったり当たることがある。
「どうしてですか?」
と、一応看護師さんは驚いてくださる。
「どうも長い闘病生活をしている間に、超能力が付いたような気がします」
といって、身近に転がっている輪ゴムを使って、すり抜けるマジックや、爪楊枝が一人でピンピン跳ねるマジックなどをやらせていただく。
「え、どうしてですか? もう1回、もう1回」
看護師さんの原因追及をしようという態度は、職業柄であろうか。それに、看護師さんは、患者の話し相手になり元気付けることも重要な仕事であるから、素直に喜んでくださり、こちらも元気になる。
だが、2度繰り返さないことは、マジックの鉄則である。
「いや、エネルギーを使い果たしました。疲れてもうできないです」
右わき腹から胆汁を取り出す管が出ていて、出てくる胆汁を袋に溜めるようになっている。先日、右側の胆管にステントを入れたために、肝臓で作られる殆どすべての胆汁がここから出てくるようになった。この出口を塞げば、胆汁は本来流れていくべき十二指腸の方に流れるはずである。
今朝の回診のとき
「ここを塞いで見ましょうか。もしおなかが痛くなったりしたらすぐ言ってください」
ということで、出口が塞がれ、胆汁を溜める袋が外された。
私の体には、点滴を垂らす管と体内のステントに繋がる管が、それぞれ右胸上と右わき腹からちょこっとはみ出している状態になった。これらは、下着の中に入れておける。やっと晴れて管を気にしないで動ける身になったのである。
裸にならない限り、普通の人である。裸になれば、ボディから2本も管を出した最新ファッションの飛んでるおやじである。(どうだ、こんなファッションは若者にはとてもマネできないだろう。)
まだステントが体に馴染んでいないので息苦しさはあるが、これは私が生き続けるための、タネでありシカケなのである。もし、タネもシカケもなかったなら、今頃はあの世の住人になっている。
私の体には、タネもシカケもございます。(2003.7.20-16:30記)
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− 毎度ばかばかしいお話で −
毎度ばかばかしいお話で失礼いたしますが。
凄かったですねー、こんだの集中豪雨は。皆様のお住まいのあたりは大丈夫でございましたか。
へー、それが内は大丈夫じゃないんでございますよ。いえね、まあ車庫が水浸しになって、買ってやっと1年目の車の床まで泥水が入ってきちゃいましてね。エンジンはもちろんかかりません。おっと、そうそう、販売店に修理してもらうように今日中に電話をしとかなくちゃあいけませんでした。
まあ被害ってたって、それくれいのもんで済んだんですが、まあ車庫の掃除も大変なんですが、前の道路もどろやゴミだらけで大変なんですから。これが乾くとホコリがまってどうしようもありません。もっとも、私は入院しておりますから、大変なのは家内やじいちゃんなんですがね。
まあ、私のほうも昨日はちょっとばかり大変でした。先日やっていただいたステントを入れるやつ、一応うまく行ったんですがね、おとといの晩からちょっと痛み出してくるは、熱は出てくるはで、レントゲンを撮って調べてもらいました。そしたら、なんでもおなかん中でステントがずれてるらしい。
ということで、そいじゃあ、ずれにくいもうひと回り大きなステントに変えましょう、てんで、祭日にも関わらず昨日の午後、またPTCDをやっていただきました。またまた、痛いやつでした。その後も、ステントがまた動いたらまたやり直しだてんで、ベットで安静です。なにしろ、30度までしか起き上がっちゃあいけねえんです。おしっこするのにも、飯食うのにも苦労しましたです。はい。
今日はまたPTCDです。これで4、5回目になりますんですが、最初のころは、お医者様が
「痛いですか?」
と尋ねられたときは、必ず
「痛いです」
と応えておりました。そうしないと、これからもっと痛いことをするぞと待ち構えていらっしゃる。
しかし、敵もさるもの、何もしていないとき
「痛いですか?」
とお尋ねになる。いつもの調子で
「痛いです」
と言ったんです。そしたら
「まだ、何もしてませんけどね」
完全に見抜かれておりました。
最近では、大体治療の要領が分かってまいりました。次に痛いことをされるな、ということが分かるようになるんですね。そういうときは、グッと息を止めて朦朧とした頭にしておなかに力を入れて耐えます。それで10秒間は耐えられるんです。
まあ、上手なお医者様は10秒間の間に手際よくやってくださる。このあたりの呼吸を心得ていらっしゃるから、前もって
「はい、大きく息を吸ってはい留めて!」
で、その間に痛いことをささっとおやりになるんです。ときどき、
「はい、大きく息を吸ってはい留めて!」
てんで、待ち構えておりますと、
「バシャ」
レントゲン写真を撮るためだった、なんていうこともございます。
ちょっと疲れてまいりました。なにしろ、30度までの体勢でキーボードを叩いているもんですから、度々間違いもございます。
では、昼からのPTCDを頑張ります。お粗末でした。(2003.7.22-10:50記)
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− 頑固比べ −
本日も、ばかばかしいお話でお付き合いのほどを。
まあ、世の中なかなか思うようには行かないことの方が多いもんでございます。思うように行かないから、生きてておもしろいという方もいらっしゃいますが。 確かに、そういうこともあるかも知れません。
ある飛行機を作る会社での話でございます。 飛行機が飛んでる時に、羽根の先がきれいに一直線にち切れるという事故が度重なりました。技術者の方々が、そりゃもう夜も寝ないで学問的に検討し、実験をしたんですが、やっぱりち切れてしまう。ほとほと困っておりました。
そんなとき、
「ち切れるところに、ミシン目の穴を開けたらいいんじゃあないですか」
というアイデアを出した人がおりました。技術者の方々は困り果てておりましたから、理屈はどうあれ何でもやってみようてんで、これをやったんでございますよ。そしたら、これが大成功。
ミシン目の穴を入れるというアイデアを出した人を表彰しよう、だれだということになって、調べてみたら、会社の掃除のおばさん、だというんです。
「おばさん、どこからそんなアイデアを思い付いたんですか? 是非教えてください」
「だって、トイレットペーパーがミシン目のところでち切れることは、ありゃあしません」
お客さん、うなずいて感心してらっしゃいますが、本気にしないでくださいよ。小朝さんの落語のネタですから。
一昨日(おとつい)の左側の胆管に針を刺し、ステントを入れるというやつですが、ダメでした。もう一歩のところまで行ったんですが、そっから先がどうにも。
結果として、私の左胸に血止めのガーゼを寂しく当てるために、4、5人がかりで2時間をかけていただきました。
医学といえども、何もかも確実なことばかりをやるわけではございません。うまくいく確率が低くても、やらないで起こる危険や、やる危険、負担などを天秤にかけてやるわけです。まあ、時間でいうと、わずか2時間のロスでございました。
数学や物理学の世界では、2年も3年も時間をつぎ込んで考え続けたことが、結局何にもならなかった、というようなことは日常茶飯事のこと。こんなことなら、へーこいて寝ていた方がましだった、ということはしょっちゅうです。まあ、数学や物理学がいきなり命の危険に関わることはあまりございませんから、こんなことができるんでございますよ。
しかし、やれるだけのことは何でもやっていただきました。思い残すことはございません。
と思っておりましたら、まだ、お医者様は諦めてはおられませんでした。今度は、既に入れてある右側のステント側から、左の胆管に入るとかなんとか、私もまだよく理解してないんですが、そんなことを、来週の火曜日にやる予定だそうです。 ( 「うひゃおー」 これを聞いた上品な妻の第一声です。)
こうなったら、お医者様と私の胆管の頑固比べですな。さて、どっちが勝つか楽しみです。むろん私は、多少痛いですがお医者様を応援しておりますです。(2003.7.24-6:40記)
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− はなっからの筋金入りだい −
振り返ってみますに、私が誰かに恋する、あるいは男の場合ですと魅かれるといいますか、そういう人というのはどういう人だったかと考えてみますと、やはり、自分の目標を持ってそれを実現しようと努力している人、だったように思うんでございますよ。
どうにも平凡なことを言いますが、まあ、だれでも人を好きになったりして日々生きているんですから、そう難しいことにしたがっているわけはない。そういうことじゃあなかろうかと思う、今日この頃でございます。
私自身はというと、高校生の頃までは、何か目標に向かって頑張るというふうではなかった。これっといってやりたいことはなかった。だから、そういう人を見ると、何と単純なやつだと横目で見ながらも、一方では憧れもし、また焦る気持ちもありました。
そういう人は、ある意味では人を寄せ付けないくらいの迫力があります。孤独をへとも感じていない気高さがあります。そういうところが、私を魅了させるのでございます。
私も大学生になりましてからは、自分のやりたい事がはっきり見えてきました。そのためには、先ずは勉強して、あるレベルまで達しなければ話になりません。毎日毎日、図書館に通いましたです。
学生達に、
「学生は、猛勉強したいという気にならないとうそだ。猛勉強するということは、単に知識の集積を意味することじゃあない。 もう自分の脳が突然変異を起こして、人が変わるくらいの気分だな。 私が学生のときには、毎日図書館に通ったもんだ」
と言いますと、学生は
「その街には、図書館という飲み屋があったんですか」
どうにも最近の学生さんは、扱いにくうございます。
まあ、私の胆管も、そういう意味ではなかなか一本筋の通った、なかなか魅力的なやつでございます。 新たに人工的な針金をわざわざ入れなくても
「俺は、はなっからの筋金入りでい」
と言っているのかも知れません。
そんな胆管は、案外周りの胆嚢や胃や膵臓なんかにも、モテモテなのかも知れません。ひょっとして、胆管様と命を伴にしたいと考えているものもいるかも知れません。
その熱々ぶりのせいか、この前のステントの入れ替えをした日以降、ずーと微熱が続いております。 おまけに、2、3日前から食欲減退。 やっぱり、胃も恋の病に落ちたのではないかと。
そういう根性のある胆管を敵にまわすと、なかなか苦労させられますです。(2003.7.25-16:00記)
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− 生きる意欲 −
福岡もやっと梅雨が明けたようでございます。
私も梅雨開けとともに退院したいものだと思っていましたが、私の梅雨明け宣言はまだまだのようでございます。
このところ食欲がない、てんでないんでございますよ。その結果、どうにも元気というものがでない。
人間、欲がなくなっちゃオシマイと思うから、なんとかしなくちゃあいけないと思うんですが、この欲というもは本能的なものなんでしょうか、自分の意思ではこれがなんともどうしようもない。
地上には餓えに苦しんでいる人々が大勢いるんだからとか、薬だと思ってとか、いろいろ私なりに考えてはみるんですが、受け付けないものは受け付けない。
まあ、なんとか1回くらいは頑張れても、もう後が続きません。
人間、生きる意欲というものは、どこにあるんでしょうか。
こんな方もいらっしゃる。
あるご婦人の方が、何かの癌になられた。余命何ヶ月。後には、まだちっちゃい子供が2人、それに旦那。
こういう場合ですと、ちっちゃい子供2人のために母として何とか生きたいと思う、こういうふうに考えると思う。 それが世間の常識というものでしょう。
ところが、その方の場合は違うんですよ。これが。
旦那が、自分に生命保険をかけていた。私が死んだら、旦那はきっと再婚し、私の保険金できっといい生活をするに違いない。そう思ったら悔しくて悔しくて絶対に死んでやるもんか、というわけで本当に元気になって、今でもピンピンしてらっしゃるというんでございますよ。
旦那さんは、残念でし…、いやいや人助けをなさった。表彰されてもいいくらいのもんです。
これ、本当の話です。 なんか人間臭くていいですね。こういうの。まあ、表面だけみれば濁っているようでも、なにか深いところはきれいに済んだ池のような。
こういう深みがないと、人間に味がないような、人生におもしろ味がないような気がします。
その点、私の場合、人並みの幾ばくかの保険には入っているはずですが、私に何かあったとき、後に残った家族のためにという、ごくごく世間一般の方々と同じ常識的な考えの持ち主ですから、残念ながらといいますか、全く生きてやろうという力にならない。
ですが、まあそれほど心配しちゃあいません。現代では、点滴というものがございます。ですから、飯が食えなくても何とか生きておれます。
点滴が私の生きる力になっているというのは、なんとも弱弱しいかぎりですが、まあこういう時期もございましょう。
まあ私のおなかは、いま梅雨時期なんでございましょう。ですが、梅雨はいつか明ける日が必ずくる。それまでの辛抱だと思っております。(2003.7.28-12:30記)
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− 豊かに生きる −
晴れた真夜中でも、街灯りのせいで都会の空には星は見えません。ですが、この頃は1つだけ見えるんでございますよ。少々の薄雲がかかっていても見えます。 それくらい明るい星なんです。夜中10時頃、東の空から昇ってまいります。
そう、火星。 今度の8月に超大接近する火星です。
何も知らなければ、ああ赤い星が輝いているな、てなもんで、まあそれだけのことなんです。
ですが、火星というものがどういう惑星なのか、どういう運動しているのか、どうしてこんなに今大きく見えているのか、そういうようなことを知っていれば、同じ星を見るにしても感慨というものがまるで違う。そういうもんです。
地球も火星も惑星ですが、惑星はケプラーの3法則
1.各惑星は太陽を焦点とする楕円上を動く。
2.惑星と太陽とを結ぶ線分は等時間に等面積をおおう。
3.惑星の公転周期の2乗は軌道の長半径の3乗に比例する。
にしたがって動いている、ということを高校の物理で学んだはずです。さらに、この3法則はニュートンの運動方程式から厳密に導き出せることを大学の物理学で学ぶ。
もちろん、本当は現象があって、それを解釈するために後から理論を作った。すなわち、ブラーエによる惑星の運動の観測データから、ケプラーが3法則を見出し、この法則を導出するためにニュートンが運動方程式を考えだした、ということです。
そして、この地上で成り立っている法則が天上でも同じように成り立っている、という不思議。
まあ、そういうことをどんどん知っていくと、1つの星を見てるだけでも感慨深いものがある。一人でも楽しめるんですね。
まあ、学生のころは、くそ役にも立たないことをどうして勉強しなくちゃあいけないんだ、と思うもんです。
「人生を心豊かに過ごすためだ」
と先生はおっしゃるが、そういうことが学生の頃ピンとくるはずはない。 ですが、その通りです。 もし、それで納得できるような学生は、もう学校に置いとくこたあない、卒業させてもいい。
まあ、星の運動なんかどうでもいいことです。知らなくても全然かまわない。これは単なる例に過ぎない。
何か、自分の好きな方面のことを徹底的に追求していけばいい。 どの道行き着くところは、結局同じところになるだろうと。 同じ人間が考えることだから。
このところ、ベッドから見える火星を見ながら、こんなことを思っていたら、おなかのうずきも忘れることができたんでございますよ。
今日は、PTCD。 最後の難関、左側の胆管に右側からステントを通す。(2003.7.29-2:40記)
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− せめてもの楽しみ −
左側の胆管に、右側からステント(チューブ)を通す処置がついに成功しました。 感謝。
エコー検査を1時間した後の2時間の難業でございました。
もはや、何回痛い思いをしたのか、昨日は1回1回を耐えることで精一杯でございました。こうなったらやけくそ、1回1回を耐えることの達成感を楽しんでおりました。終わりごろには、どんなことでも耐えれば耐えられるという、妙な自信を持ったのでございます。そういう意味では、どこか心の安らぎがありました。
人間おもしろいもので、そういう痛みの状況でも、何か楽しみを見い出すものでございます。最も痛みが走る最中に、部屋の中のありとあらゆる音を聴くことができるだろうか、ということに挑戦してみました。機械を操作する音、モーターの音、空調の音、人の足音、ドアの振れる音など、その気になれば何でも聴こえるもんでございます。
そのように苦労して入れたステントが、外れたらまたやり直し。ですから、その後の安静は絶対必要です。ある意味ではこちらの方が辛うございます。まあ、夜が長い長い。 永久に朝がやってこないんではないのかと思うほどでございました。
歩いたらいけませんから、おしっこはベッドの中でということになります。ところが、不思議なもので、寝たままではどうしても出ないのでございます。ちょうど、赤ちゃんが、初めてトイレで用が足せないのと同じように、我々はベッドで寝たままでは用が足せない。完全に精神的なものでございます。うそだとおもうなら、やってみてください。できるものではございません。いや、元気な内にこのような練習をしておくといいかもしれませんよ。私は修行により、平気で寝て用足しができる優秀な患者になりました。
まあ、傍から見たらかなり悲惨に見えるかも知れませんが、当の本人は意外と平気なもんです。それに、こんな楽しみしかない生活ですが、それなりに新しい発見の喜びもあるもんです。
これからは、日増しに元気になるはず。頑張りがいがあります。(2003.7.30-20:30記)
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− どういうことじゃ??? −
閻魔大王:「なに、お前は後何年生きたいのじゃと?」
私 :「いえ、ほんの30枚のハノイの塔が完成するまでの間で結構でございます」
「えい、回りくどいことを申さず、はっきり申せ」
「はい、では申し上げます。願わくは後34年。すなわち私が85歳になるまで」
「うーん、それはちと欲が深すぎはせぬかのー」
「はっ、左様でございましょうか?」
「だいたいがお前は病気持ちじゃ。医者も手術を諦めたそうじゃあないか。どこの保険会社も今からじゃあ加入させてはくれまいよ」
「それはそれとして、そこを閻魔様のお力でなんとか」
「じゃが、我々の世界の約束で、人間に引導を渡す年を絶対に教えてはならぬことになっておるのじゃ」
「はあ、左様で。それで不幸はいつも思いもかけぬ時にやってくるのでございますか」
「そういうことじゃ。ところで、お前は今度の10月の誕生日で幾つになる?」
「52でございますが」
「では、こうしよう。お前が52歳から85歳の間に、お前に必ず引導を渡そう」
「はあ、それはいつで?」
「だから、それは教えることはできぬのだ。つまり、お前が誕生日を迎えた日に、その歳に自分に引導を渡されるということが分からない歳に引導を渡してやるから、必ずお前にとっては思いもかけぬ歳にあの世に逝くことができるというわけじゃ」
「はあ?」
「それでは毎年毎年を大切に生きるのじゃぞ。わかったか? さらばじゃ」
「ちょ、ちょっとお待ちくだされ、閻魔様」
「なんじゃ、まだ何か用か?」
「ということは、私は85歳の歳ではあの世に逝くことはありません。なぜなら、85歳までには必ず引導を渡されることになっているのですから、84歳まで無事で85歳になった誕生日には、この歳で引導を渡されることがわかってしまい、思いもかけぬことになりませぬ」
「そうじゃな」
「そうしますと、52歳から84歳の間に引導を渡されることになりますか?」
「そういうことになるのー」
「ですが、私は84歳の歳ではあの世に逝くことはありません。なぜなら、84歳までには必ず引導を渡されることになっているのですから、83歳まで無事で84歳になった誕生日には、この歳で引導を渡されることがわかってしまい、思いもかけぬことになりませぬ」
「そういうことになるのー」
「そうしますと、以下同様で、私は52歳でもあの世に逝くことはありません。わーいわーい」
「ありゃりゃ、わしとしたことが。 どういうことじゃ…??????」
問. 本当に閻魔大王は、私に引導を渡すことはできないのでしょうか?
(答: 残念ながら引導を渡すことができる。 ただ、閻魔様がこのことを理解納得されるまでは生きのびられるかも。あまいか?)
(2003.8.1-00:00記)
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− とらわれてはいかん −
私 :「閻魔大王様!」
閻魔大王:「なんじゃ、またお前か」
「ちょっとお尋ねしたいことがあるんですが…」
「なんじゃ、わしゃ忙しいんじゃ、手短に申せ」
「はい、では手短に。 閻魔様の、お仕事はどういうことでしょうか」
「わしの仕事は、地獄を取り仕切ることと、死者を裁くことじゃ。それに最近は、あちこちの祭りにお呼びが掛かる。この忙しいのに」
「死者をどのようにお裁きになられるんで」
「生前の行いが記載されている、”えんま帳” を調べ、生前の行いを映す鏡でその者の善行悪行を判断するのじゃ」
「お仕事は、楽しいですか?」
「楽しいわけがなかろう。辛苦の連続じゃ」
「なんのためにそのような辛苦なことをお続けになられるのです?」
「なんのために? ばかもん。 なんのためにでもないわい」
「なんのためにとお考えになったことはないので?」
「目的をもって、それに向かって頑張るのは、まだ未熟者のやることじゃ。目的も理由もなく辛苦に耐えてこそ、無常の境地に達するのじゃ」
「はあ、無常の境地に達するために、辛苦に耐えるということで?」
「ばかもん、そうじゃあない。なんのためにはでは一切なく、結果として無常の境地に達することもあるということじゃ」
「無常の境地に達しないこともあるんですか?」
「あたりまえじゃ、無常の境地に達しないことの方が多かろう」
「わかりにくうございます」
「そうじゃのう、親が子供をなんの見返りも期待せず愛する、ようなものかのう。いや、そういうもんでもないよな気がする」
「どういうもんなんで?」
「本来、苦にも楽にも目的も理由もない。楽はいいが、苦でも耐えなくてはならぬ。なんのためになんのためにということにとらわれていては、もがき苦しむ地獄の世界しか見えぬということかのー」
「わかりにくうございます」
「無理もない。わしも地獄の総支配人にもかかわらず、何を言っておるのかようわからん」
「体調があまりよろしくないのでは…」
「そうじゃのう。ちょっと休ませてくれ。お前もばかなことを考える暇があったら、寝ろ」
(2003.8.3-07:40記)
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− けだるいでござる −
このところズーと体がけだるうござる。このけだるさはどこから来るのか存知申さねど、ほとほとまいる。
体がだるいのは、体が疲れているのとは全然異なり申す。疲れているのなら、休めば元気になるのでござる。
体がだるいので、ついつい寝っころがりたくなり申すが、それで回復するということはなく、益々だるくなるような気さえいたす。
こんなときは、運動着に着替えて半時もジョギングなるものをすれば、スカッと爽快、元気になるのでござるが。
残念ながら、今の私にはそれは出来かねる。 時速300mでの歩行さえおぼつかぬ。パソコンをいじくるのが精々でござる。
体の疲れは、疲労物質の溜まった状態。あるいはエネルギー不足でござろう。
一方、体のだるさは、エネルギーのはけ口のない余った様子だという説がござる。
だから、体がだるいときは、寝っころがっていたり、受動的にテレビをみていたりして、ゴロゴログーたらしていては改善されない、という理屈でござる。こういうときは、趣味や家事のことなどして、自分の体、頭を能動的に使う作業を行わないといけない、ということのようでござる。
確かに、こうしてパソコンをいじくっている間は体のけだるさは忘れている。 だが、困ったことには今度は、エネルギー不足になりかかっているようでござる。今朝の体重測定では、入院時より9kgの減少でござった。難儀なことでござる。
なげやりなおかしな言葉使いでござる。せめて、けだるさが表現できていれば幸いでござる。(2003.8.3-11:40記)
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− こぼれ落ちる雫(しずく) −
毎日暑い。夏真っ盛りだから当たり前といえば当たり前であるが、こう暑さが続くとどうにも食欲がなくなる。
だが、私の食欲不振の原因は、暑さのせいではなく、病気治療や抗生物質等の薬のせいである。
先日、ういろう を頂き、これなら食べられるのではなかろうかと思い、妻に開けてもらった。長さが10cmはあろうかというもので、私ひとりではとても食べ切れない。半分にしてもらい、半分は妻が食べた。
口にして、ふっと疑問が沸いた。なぜこんなに美味しいものを、半分妻に食べられなければならないのだ、という後悔の疑問ではない。本来、美味しいものはどんなに僅かでも半分にして二人で食べる、という美しい夫婦なのだ。(こういうことは言ったもん勝ちである。)
では、どのような疑問かというと、次のような疑問である。
仲良くちょうど半分ということで、切ったところがちょうど端から5cmのところだったとしよう。そうすると、ちょうど5cmのところは、私が食べたのか、妻が食べたのか、ということである。ちょうど5cmのところは、一箇所しかないだから、どちらかが食べたに違いない。
私が子供の頃、内のばあさんがよく言っていた。
「リンゴは皮をむかんで食べるもんじゃ。皮と実の間に一番の滋養分があるんじゃ」
子供心にも何となく納得していた。だが、落ち着いて考えてみると、リンゴは皮と実からできているのだ。その間と言われても、そこは皮か実かのどっちかでなくてはならない。そこに滋養分があると言うのだから、これはなかなか哲学的である。
私の病気は、胆管である。いろいろ検査やら治療やら、あるいはその後に熱が出たり、食欲不振になったり、便秘になったり下痢になったりと、後遺症やら副作用やらで、なかなか穏やかに過ごせる日がない。
痛みの原因は、すべて私の体の変調にある。この体の変調が私の脳に送られて、痛がっている。だから、痛み止めの注射を打って脳の働きを鈍らせると、確かに痛みがやわらぐ。
つまり脳も物理的に操作できる。
人間は、「心」 と「体」 からなるとよく言われるが、脳は体の方に入るであろう。情感も脳の作用による現象だとすると、人間は体だけであるということにもなりかねない。
河合隼雄氏は著書「猫だましい」のなかで、「連続体である人間存在」を、「心」と「体」という明確な部分に分けた途端に失われるものがある、それを「たましい」と考えてみてはどうだろうと言っている。
リンゴの皮をむくと、滋養分という 「たましい」 が抜け落ちるのである。
ういろう のちょうど5cmの箇所は、私が食べたのではない、妻が食べたのでもない。2つに分けた途端に5cmの箇所は美しい夫婦愛という目には見えない「たましい」 に変わったのである。
サンテグデュペリの
「肝心なことは目には見えないってことさ。心の目で見なくっちゃ」
と言う、「心の目」 とは、このようなことであろうか。
明日は火曜日。PTCDによる、左の胆管のステント(チューブ)の入れ替え。体は体として、その痛みに耐えよう。そこからこぼれ落ちてくる雫(しずく)に安らぎを感じてみたいものだ。(2003.8.4-16:30記)
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− 思わぬ難治療 −
5日の4時から8時近くまで行われた、左側胆管のチューブ入れ替えは、思わぬ難治療であった。
左側胆管のチューブ入れ替えは、既に入っているチューブにガイドワイヤーを通しておき、チューブを引き抜き、その後新しいチューブを入れる、という治療である。
ところが、2時間近くの先生方の挑戦にも関わらず、どうにもうまく行かないらしい。 チューブを引く抜こうとすると、ガイドワイヤーも抜けてしまうというのである。 その間、たびたび襲ってくる痛みに身構える余裕すらなく、全身脱力するという新しい方法で対処するしかなかった。 だが、この時点で、もはや私は心身ともに消耗しきってしまっていた。
しかし、ここで止めるわけにはいかない。なんとかしなくてはならない。というわけで、とられた方法は、私にとって気の遠くなるようなことであった。
「これから胃カメラを飲んでもらえますか。 おなかの中の方からガイドワイヤーの先を掴んでおけば抜けないですから」
頭が朦朧とする薬を使っていただいたお陰で、口の麻酔をした後は、ほとんど覚えていない。 最後に、先生が
「うまくいきましたよ」
と言われたのだけは覚えている。
6日、7日は、微熱とおなかの痛みで寝たきり状態。 徐々に回復してきている。 やっとパソコンをする気力が出てきたところである。(2003.8.7-21:10記)
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− 逆命題 −
「最高次元 : 自己が自己に作用すること」
もの思う高校生のとき、辿り着いた結論の1つである。
わずか7、8頁であったと思うが、まとめた考えを記し、表紙に黒々と表題 「最高次元」 と書いた大学ノートは、今でも探せば日焼けしてどこかの引き出しの隅に見つかるはずである。
それは今手元にはないが、言いたかったことは覚えている。
見ている自分が、見ている自分を見詰めること。
思考している自分が、思考している自分を思考すること。
すなわち、「自己が自己に作用すること」
物事は何でも突き詰めればここに至る。したがって、最高次元なのである。
おそらく、そのとき考えたことは、それ以上のことはなかったと思う。
だから、どうなんだ? と言われれば、それまでである。
だが、あれから34年経った今、これはこのように使えるのではないかと思ったのである。
当時の最大の疑問は 「人は何のために生きるのか?」 ということであった。すなわち、
主命題:「私は人生に意味を期待している」
ということである。最高次元では、見るものが見られるものということである。したがって、主命題を提唱するなら同時に
逆命題:「人生が私に意味を期待している」
も提唱されるべきである。この命題は、誰かがどこかで既に言っていることであるが。
「どうして私は辛い闘病生活を送らなければならないのだろう」
人はだれでもこのように考えてしまう。すなわち、
主命題:「私は辛い闘病生活に意味を期待している」
のである。最高次元では、同時に
逆命題:「辛い闘病生活は私に意味を期待している」
ということになる。
世間は主命題を口にする人を評価しない。逆命題を叫ぶ人を敬う傾向にあるように思う。
なぜなら、主命題からは産まれるものはほとんどないのである。それに対して、逆命題の方は人間の能動的な生命力を感じさせるのである。
それにしても、
「食欲が私を襲ってくる気配がないのは、私に何を期待してのことだろう」(2003.8.8-18:00記)
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− 泣けてくるけど懐かしい −
学生の頃、盆や正月はあまり好きではなかった。学内はシンとし、研究室には誰もいない。学食も閉まっている。
ある年の正月のことである。大学周辺の食堂も皆、戸口に 「賀正」 という貼り紙を貼って閉じられている。しかたなしに、コンビニでおにぎりと袋入りのインスタントラーメンを買い、下宿に戻る。下宿も自分以外、人の気配はない。
空は晴れわたり、よけい孤独を感じさせるまぶしい光である。
コタツにもぐり込んで本を読む。正月に帰省しないのは、高額な汽車賃のせいもあるが、それより、その間自分でものを考える自由を奪われることのいらだちである。だから、こうしてコタツにもぐり込んで、ひとり本を読み、ものを考えることに熱中できることに、孤独に勝る幸せを感じていた。
昼におにぎりを食べ、そして夕食時。共同の洗面所のある一階から鍋に水を汲んでくる。部屋の隅で電気コンロに鍋をかけ、インスタントラーメンの完成である。
これを鍋ごとコタツの上に運んで食べる。運ぶときは、何か景気のいい歌でも口ずさみながら運ぶのだ。なぜなら、この状況を客観的に眺めれば、これは世間的にはかなり悲惨な状況である、ということに自分で気づいているから、改めてこのことに気づいて自分で惨めにならないように、景気のいい歌を歌うのである。
ところが、ほんとうの悲劇は次の瞬間に起こった。運ぶ途中、ラーメンを入れた鍋を持つ手がすべり、コタツの隣に引きっぱなしの布団の上に、中身をぶちまけたのである。
「お、おー、マイゴッド!」
一瞬、呆然とし、そして深くため息を付き、次には、込みあげる涙をどうすることもできなかった。
こぼれたラーメンももったいないが、今日はこのラーメンの匂う薄汚れた布団にくるまって寝なくてはならないのか。
これを書きながら、涙が出てきて止まらなくなった。もし、読者の中で私と同じように涙して下さっている方がおられるなら、申し訳ないが、これは私の創作である。笑っていただきたい。
ただ、創作部分は、ラーメンを布団の上にこぼすという箇所だけである。これ以外は、私の学生時代の正月の過ごし方であった。
語ると悲惨なことになるが、当時の私はこのような生活を楽しんでいたのである。
盆が近づき、病院もなんとなく夏休み的雰囲気になってきた。 主治医の先生も、
「しばらくいなくなりますが、他の先生方に何でも言ってください」
と言いに来られた。 (2003.8.9-0:10記)
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− グラフでは伝わらないもの −
下手な文章より、グラフで表したほうが、正確に伝わる。
だが、私の気持ちは伝わらない。私の心情は伝わらない。何故だ。
天井をながめて今日も過ぎ
食欲はなし、思うこともなし
そのとおりなのであるが、これでは本当に救いようがない。詩にならない。
だが、私がもし、病に倒れていなければ、
雑用という仕事に追われ今日も過ぎ
得るものはなし、思うこともなし
となるだけなのだ。
もっとも、詩のない日々の生活の積み重ねが、振り返れば
川の流れのように ゆるやかに いくつも 時代は過ぎて
川の流れのように とめどなく 空が黄昏(たそがれ)に 染まるだけ
<秋元康 「川の流れのように」 から>
のような詩になるのだろう。(2003.8.10-16:50記)
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− ただだらだらと −
生まれながらにして、苦手なことは多い。今にして思えば、すべては自意識過剰がそうしたのである。
水泳しかり、鉄棒しかり。最初からできるはずもないのに、人前でできない姿を見せるのがいやで練習をしなかった。もの心つくころから、それほどまでに自意識が過剰だったのである。
人中や人前で話をすることは、特に苦手であった。
それは今もそうである。ただし、数学や物理学の授業とあれば別である。美しく体系化された理論を理路整然と話すのなら、百数名の学生を相手にしてもたやすく、しかも楽しくさえある。自然に雑談も冗談も入る。
作文も苦手なことのひとつである。加えて筆不精。
井上ひさし氏は、「井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室」という本の中で、作文の秘訣を一言でいえば、
「自分にしか書けないことを、だれにでもわかる文章で書く」
と述べられている。だが、そういわれると、なんだかますます難しくなりそうだ。
今日あったことを、そのまま書く。ただ、事実をそのまま書く。そして、思ったことがあったらそれも書いてみる。それを続けていれば、作文らしくなる。それでいいのだと思う。
いつのまにか、思ったことしか書かなくなってしまい、私の文章は抽象的なものになりがちであるが。
つまるところ、水泳も、鉄棒も、人前で話すことも、そして作文も、なんでも何回もやってみる、場数を踏むことに尽きる。要は慣れである。必要に迫られて、あるいは仕事で止むを得ず、などなどがそれを可能にするだけである。
6人兄弟の内、5番目がただひとり姉である。その姉は、4番目の兄の談によると ”田舎のおばさんのわりには進歩的なところも伺え”、パソコンを扱う。 そして、メールでたびたび近況を知らせてくれる。野菜作りの話や、なにげない日常のことである。 それが私の楽しみである。そして、私の病気快復を祈ってくれる。
時々、私は姉からのメールを読みながら、なぜだか妻からのメールと錯覚するのである。 そして、女性は祈る。
私は祈ることをしない。だが、言葉にして祈ることは、今自分が何を一番望んでいるのかをはっきりさせる、という意味がある。
そういう意味では、自分で祈らないと意味がないのかも知れない。だが、人が自分のために祈ってくれているということは、その事自体が大きな励ましになる。
人を思いやる文章、祈るような文章。 このような状況にあっても、わたしにはなかなか到達できない境地である。 ただただ、今日をのりきることにあがき、 その結果、筋の通らない文章になるばかりである。(2003.8.13-00:00記)
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− 色の塗り替えどき −
100年生きようとは思わないけれど、せめて人並みに76年くらいは生きるつもりでやってきた。
若者は新しい時代の中で新しい色を創る。こうして歴史はつくられてきた。
私もそろそろ色を塗り替えるときにきているようだ。
さてさて、どんな色にしようかな?
(2003.8.15-17:10記)
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− 詩の言葉を持たぬものは −
詩の言葉を持たぬものは
せつない想いを表さぬままに
夏の光に身をゆだね
胸を焦がすのでありました
詩の言葉を持たぬものは
生きた証を残さぬままに
月の光の眩しさに
もの思うのでありました
詩の言葉を持たぬものは
白いノートを汚さぬままに
自分らしく生きたといって
微笑むしかありません
食欲いまだ出ずも、 先の方に出口らしき薄明かりがぼーとしているような、それを見詰めて長いトンネルの中を足を引きずりながら歩いている。(2003.8.15-17:20記)
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− トンネルを抜けるぞ −
熱も出なくなった。腹痛もほとんど治まった。暗く長いトンネルであったが、やっと出口が見えてきた。後は、食欲だけだ。 窓の景色も生き生きして見えるぞ。
我ながら、よく描けた。これが私の胆管(薄紫色)である。
正常な胆管なら、スーとホースのように伸びているものなのである。私の胆管はでこぼこと、まるで芋の子のように連なっている。おおなんとも可笑しくも痛々しや。
知らぬこととはいえ、この姿になるまで放っておかれたことを恨むでない。知った今でも、治療法はないのだ、どうしてやることも出来ぬ。慰めの言葉もないが、あと数年頑張っていれば、治療法が開発されるやも知れず。希望を持って生きてくれ。
特にAとB点が細くなっていて、これが今回の私の腹痛の原因だ。
そこで、右と左の主流の胆管と、それらが合体する総胆管にチューブを通す治療が行われたわけである。チューブは、単なるホースのようなものではなく、横っ腹にいっぱい穴があいているのだそうである。
今までは、C、Dから体外に胆汁を取り出していたのであるが、昨日ここが閉じられた。だから、今は本来の胆汁の流れであるB点を通って、十二指腸に流れているはずである。今のところ、問題はない。
この状態で問題がなければ、一応の治療は終わりである。肝臓内に張り巡らされた胆管の支流が詰まるようにならないかぎり、または、どこにあるのか胆管癌がおとなしくしていてくれるかぎり、元気に生活できるのである。
君たちのことは忘れて過ごすぞ。(2003.8.16-19:40記)
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− あがきたい −
他人の痛みは、十年でも我慢できる
と言われている(私が言っているのではない)。 また、
過ぎ去った辛さは、十年でも許せる
ような気もする(私の場合、気がするだけである)。
やっと生き返ったような気がしている。 ”のどもと過ぎれば熱さも忘れる” と言うが、今こうして痛みがないと、今までの辛いことは、すべて許せてしまえるような気分である。
そして、この辛い体験から多くのことを得た。だから、この病にかかったことはけっして無駄なことではなかった。却って良かったのかも知れない。感謝、感謝。
というような心境には、決してなり得ない。こんな辛い苦しいことは、もう二度とご免である。 得たものもないこともないかも知れないが、そんなものは、のしを付けてそっくりお返しする。
そして、このような辛く苦しいことは、誰の身にも起こらないことを願う。
人は誰でも、どんな行いをして生きてきたかによらず、多かれ少なかれ、死ぬ前に苦しまなくてはならぬ。数日という人もいるだろうし、数ヶ月という人もいるだろうが、それはとても辛く実りなき苦しみである。鎮痛剤が開発されたとはいえ、希望のない、どんな罪の償いよりも過酷なものである。
何故、このような避けられない試練が課せられなければならないのだろう。何をしたというのだろう。
自ら命を絶つことを許されず、ましてや他人が楽にさせてはくれない。ただひたすら死ぬまで耐えなくてはならないのである。
深く重い問題であるが、何も答えを見出すのに難しいことではない。哲学的な問題でもなく、宗教的な問題でもない。ちょっと考えてみれば結論を得る。
すべては、後世の人のためである。社会秩序を守るためなのである。
ここまでの辛さならば自殺を認めようとか、これほど苦しがっているのなら殺人を認めようとかの線引きができないかぎり、どんなに辛かろうと自殺は認められず、どんなに苦しがっていようと殺人は認められないのである。
そのために、すべての人は、どんなに辛かろうと、どんなに苦しかろうと、後世の人間社会の秩序のために、務めを果たさなくてはならない。
この事実、素直に受け入れるかどうかの問題ではないのであるが、それでも私は見苦しくもあがく。人としてあがく。 (NHKの番組ではないのだから、優等生的にまとめる必要はないのだ。)
これで、もう治療は終わりだと思っていたのであるが、チューブを2段階も太目のものに取り替えるのだそうだ。そのほうが長持ちするのだそうだ。うへー。コラエテくれー (ほんとうにあがきたい)。(2003.8.17-19:20記)
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− 蝉の声も聞こえない部屋で −
何でも3つに分類できる。
競馬に夢中になっている人に、人間を分類させると、
1.競馬が好きな人 2.競馬が嫌いな人 3.馬
もう馬も人間扱いにするようでないと、本当の競馬好きとは言えないらしい。
生物学者に、生物の生き方を分類させると、
1.ひたすら生きる 2.たくみに生きる 3.わきまえて生きる
となる。
「ひたすら生きる」 とは、細菌のような簡単な生物の生き方。代表者は大腸菌のそれ。 「たくみに生きる」 とは、細胞が集まって個体をつくる生物の生き方。周りの動物や植物の生き方がこれにあたる。 「わきまえて生きる」 とは、考える能力を持った人間の生き方。
1や2の生き方をしている人間も、見受けられるとか、られないとか。 現に今の私は、ひたすら生きるしか方法はない。
もっとも、どれが上だ下だという問題ではない。
病院ギャグ。 手術を受ける患者に「頑張ってね」と声をかけるが、患者は麻酔をかけられて寝ているだけじゃあないか。
この夏、蝉の声を初めて聞いた。病室の窓が開かないので、今まで聞こえなかったのである。空気の入れ替えをしようと天窓を開けたとたん、ジージーと鳴く声が部屋の中に響きわたり、おそまきながら夏を感じたのである。
チューブの入れ替えは、しばらく見合わせることになった。ほんのちょっといじくられただけで、2、3日も腹痛に苦しみ、食欲回復どころではない。 点滴と栄養剤では体力の回復はできない。 一度、体力気力を回復し、人間らしい生活を取り戻した方がよかろうということで、体調がよければ近いうち退院できるかも知れない状況になりつつある。
蝉の声も聞こえない部屋で、ひたすら生きたくはない。 残り少ない今年の夏をいまからでも感じながら、わきまえて生きたい。(2003.8.20-13:00記)
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-74-
− B君の生き方 −
人の幸せは、今の状態じゃあなくって、状態の変化の様子だよ。
A君とB君の成績(状態)が、例えばグラフ(左)のようだったとしよう。明らかに、いつみてもA君の方が優秀である。 だが、成績の伸びぐあいをみてみると、グラフ(右)のようになる。
A君よりB君の方が、生きてて楽しいだろうと思うわけである。
つまり、能力があるかないか、成績がいいかわるいかではなくて、希望があるかないか、夢があるかないかが生きてて楽しいかどうかということ。
明日22日退院することに決定。 一応の治療を終えてとりあえず落ち着いてきたこと、体力を回復して第2ラウンドに備えるための退院であるが、まずは安らぎの日を送れそう。 異常が起こらないなら、2、3ヶ月はこのまま。 ただし、毎週1度の外来受診は必要とのこと。
第2ラウンドは、外科的治療としてチューブの入れ替え、そして内科的治療として胆管癌への制癌剤投与が予定されている。
いずれにしても、気長い闘いになるが、そうしながらしぶとく生き抜き、その中でできるだけ人間的に生きてやろうというスタイルである。 ジョギングはできないかも知れないが、散歩で楽しんでやろう。 これはこれでおもしろいだろう。B君の生き方である。(2003.8.21-14:00記)
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− 我が家にて −
朝10時の回診後、退院。 10時40分には我が家に到着した。
いろいろお世話になった先生方や看護師の方々に挨拶する間もなかったが、また2、3ヶ月後にはお世話にならなければならない。 だが、いま自宅でこうしてくつろいでいると、3ヶ月余りの病院生活がもう遠い昔のようでさえある。
自宅パソコンのWindowsの再インストール等に没頭していると、多少の腹痛など忘れている。久々に飯をうまいと感じることができた。
あまりに仕事が忙しく大変で、病気でもして入院しゆっくりしたいとお考えのあなた。病気を選びましょう。消化器系統はやめておきましょう。間違っても、胆管の病気は避けなくてはなりません。
「 ”うきぐも” もよく続くなー」
「下手くそでも文章にすれば、漠然としたことが形になり、考えがまとまりますね。 一種の自己カウンセリングのような効果があるみたいです。 せっかくパソコンをお持ちであるなら、これはやってみることオススメです。 必ず新しい発見があります。 それに、ときどき皆様から励ましのメールをいただき、病の身にはとても元気付けられます。 まあ、ホームページ上だから読んでもらったあと紙ゴミを増やさないことが、唯一の救いですかね」
「 ネットできない人に、”うきぐも” をプリントアウトして送っている人もいるそうだよ」
「ヒエー、うれしいけど、紙資源のむだ使いにだけはならないように願います」
(2003.8.22-18:00記)
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− 我が家にて(2) −
23日(土)。 ガーゼの付け替えのために、車を運転して病院に行ってきた。 3ヶ月余りの空白であったが、車の運転はなんら問題はない。 その後、町の図書館にも出かけた。 病気に関する本も多いが、今は見たくもない。 随筆や哲学解説本など5冊借りてきた。
我が家に帰って、がぜん食欲が出てきた。 なにかとすることがあって動き回るので、腹がへるのである。それにわずかに残っていた腹痛も徐々に取れてきた。
難儀なこと。 床を裸足で歩くと踵(かかと)が痛い。食卓の椅子に座ると尻が痛い。 テーブルにひじが立てられない。足の肉も、尻の肉も、手の肉も落ちてしまっていて、いきなり骨が当たって痛いのである。
だが、順調に体重も回復してきている。 大きくなった火星が南の空に輝いている。(2003.8.23-23:50記)
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− 我が家にて(3) −
物事の苦悩は、どうしてこのようなことになったのか、いまどのような状況にあるのか、そして今後はどのようになるのかということがはっきりすることにより、何分の1かに弱められる。
姿勢のとり方によって、腹痛が起こる。 胆管にチューブが入れられているためである。 主事医の先生によると、チューブが体になじめば腹痛は弱まるが、正直なところ完全に痛みがなくなることはないだろう、ということである。だが、通常は意識をしないかぎり忘れている程度のものであるから問題はない。原因が解っているので、気にならない。
家で、ごろごろして本を読んで過ごしている。体がだるいのは、体力が回復していないせいか、怠け心のせいか、暑さのせいか、よくわからない。 ごろごろしてばかりでは、筋力も回復しないだろうと、昨日はいつも週末ジョギングをしていた公園にでかけ、半周2km余りを30分かけて散歩した。 実は、この公園をジョギングしていたときは、いつまでこうして走っていられるだろう、という思いが必ず心をよぎっていたのである。 今はまだゆっくりと散歩しかできないが、また走れる日がくるかも知れない。
図書館で借りてきた、西研著「大人のための哲学授業」(大和書房)はとてもわかりやすい。
現在の自分は、どのような社会の移り変わりの中で、どのような教育を受け、どのような考え方に影響されているのか、を知ること。 自分のいる状況を自覚し、これから何を目指し、いま何を考えなくてはならないのかを認識すること。 そこからやり直すのが、私のやり方。
物事は、過去と現在の状況を明確にし、そして今後を、自分の頭で納得するまで考える。 そのことにより、苦悩は苦悩でなくなり、やるべきことが希望として見えてくるだろう。
体力とともに、気力も回復させなくては。(2003.8.25-16:20記)
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− 我が家にて(4) −
グランマ(妻の母) 「物騒な世の中だから、お父さんが退院して家にいてもらうと、やっぱり夜安心して眠れるねー」
妻 「病気あがりで、あまり頼りにならないけどね」
私 「そんなこたあーない。わき腹には、短銃(胆汁)があるぞ」
娘 「クックックック …」
私 「それに、短銃(胆汁)には、ガン(癌)も入っているぞ」
娘 「ギャハッハッハッハッハッハッ…」
箸がころんでも可笑しい娘にだけは、大うけ。 (2003.8.27-8:40記)
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− 我が家にて(5) −
選択の自由が二つしかなくて、そのどちらを選んでも苦悩の道である、ということもある。
なぜか体を水平にすると、チューブを入れたところが少し痛む。気をまぎらわすものがあれば気にならない程度の痛みであるが、夜寝付くまでの間、これが悩みのひとつである。
ソファに座ったままではぐっすり寝れない。仰向けに寝るか、わき腹のチューブを上にして横向きに寝るか、このどちらかしか選択の余地はないのであるが、仰向けにして痛い、横向きにして痛い。 無意識の内に第三の道を考えているが、その虚しさに気づいて布団の上にあぐらをかく。 改めて、自由のない人の不幸を思うのである。
8月28日(木)。 外来で受診。 血液検査の結果、ビリルビン、AST、ALT、γ-GTPなどの値は全て基準値内であった。胆管にチューブを入れた治療のお陰である。
ただ、「息むとわき腹から胆汁が漏れるので、ガーゼをしょっちゅう変えなくてならないのには閉口する」 と訴えたら、わき腹から少しだけ出ているチューブのところを縫い直してくださった。
だが、胆汁はまだ漏れる。 やはりチューブを太めのものに入れ替えてもらい、チューブの周りに肉が付くのを待つしかないようである。いずれにしても痛い思いは避けられない。 これが、悩みのふたつめである。
悩みが多いと、考える人になる。
例えば、「時間に始まりはあるのか、終わりはあるのか」 とか、「人間死んだらどうなるのか」 などのような決定的な答えがない問題にとりつかれたら、どうすべきか。 最近読んだ哲学の本によると、その問題に対しすぐさま 「正解」 を求めようとするのではなく、「そもそもなぜこのような問が気になるのか」 と問うことが、哲学の方法である、と言う。
なるほど、考えてもどうしようもないことは、まともに考えないことは、大切な知恵のようである。
久々に、算数楽パズルランキングの問題を追加した。 なかなか創作問題をつくる元気はないので、古本屋でおもしろそうなパズル本を探してきて、ちょっと変えたり、そのまま拝借したりである。
筋道を立てて考えることも必要、発想の転換も必要。 体を動かすことが生きている喜びであるように、頭を動かすことも生きている喜びである。
問.不妊症は遺伝するでしょうか?
(2003.8.31-13:40記)
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− 退院2週間目 −
数学の授業でのこと。 まず、ある例題について説明をする。そして
「いいですか。わかりましたか」
と言っても、学生はほとんど反応を示さない。
そこで、
「じゃあ、これからこの例題についての小テストをやりましょう。 テストをされると困る人がいますか」
というと、途端に学生の目の色が変わるのがわかる。そして、何人かが手を挙げるのでそれらの学生を指名すると、なんだかんだと質問をしてくる。 学生はやっと自分の問題としてとらえるのである。
テストで学生を脅迫しながら授業をするのはあまり利口なやり方ではないのであるが、この効果はてきめんである。
日々さまざまなニュースが伝えられているが、当事者、関係者にとっては大問題のことでも、部外者にとっては自分の問題としてとらえることはできない。直接自分の利害に関係しないから、無理もないことである。
今回の病気を患って、いろいろな検査や治療の辛さ、それに伴って、熱が出たり、食欲がなくなったり、便が出にくくなることなどの2次的な辛さなどを体験した。今の私は、病気と闘っている多くの人々が、今日もこれらの辛さに耐えていることを想うことができる。 ただ想うだけで、実際は何もできないのであるが。
チューブを胆管に入れていることによる多少の腹痛と、わき腹から胆汁のもれによるガーゼの交換の煩わしさがあるが、なんとか日常生活ができる。体力もだいぶ回復した。
9月1日から職場に復帰した。授業のような体仕事はまだ無理のような気がするが、幸い今年度は内地研究員として近郊の大学の研究室でのデスクワークであるから可能である。むしろ、自宅で横になって本を読んでいるより、研究室の机について何かしたり、議論をしている方が、体が楽である。多少気が張っているほうが、体も気分も調子がいい。 ギターの弦はピンと張らないといい響きがしない、とかなんとかもっともらしい比喩ができそうである。
入院していると元気がなくなるのは、ベッド以外に居場所がなく、病気のことを考える以外することがないことも一因である。 といっても、病室という環境、雰囲気で仕事をする気になれないのは体験済み。
次回入院しなくてはならないときのために、ちょっと気を張っていられるような、何かいいことを考えておく必要がある。(2003.9.4-8:00記)
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− 退院3週間目 −
プロの物書きではないので、言葉の使い方に充分に気を使い慎重を期すという習慣が身についているわけではない。自分の感覚だけをたよりにしているから、私の書くものはそれなりの目をもった人から見たらずいぶんいい加減なものである。
プロの物書きは言葉の使い方に対して異常なほどに神経を使う。分かりきったと思えるような言葉でさえも、何種類かの辞書を引いて確認したり、もっと適切なものはないかと推敲する。物書きにとっては、辞書は必需品なのである。
私のような素人でも、そして物を書いているときではなくても、ときにこの言葉は本当はどういう意味を持っているのだろうと思うことがある。
退院して3週間をなんとか無事過ぎた。 相変わらずのチューブの違和感とガーゼの交換の煩わしさはあるが、いちおう幸せな日々である。ありがたいことであるが、家でも職場でも気を使ってくださる。
毎朝車を運転して職場に出かけるとき、送り出す妻は
「無理をしないでね」
と言う。「頑張ってね」 とは言わない。
「頑張ってね」 という言葉には、「無理をしてね」 という意味があるのだろうか、ということが疑問として沸いた。もしそうなら、「頑張ってね」 と言う言葉は少々きつい言葉であるような気もする。
こういうときこそ、辞書を引いてみよう。広辞苑第四版(岩波書店) には、「頑張る」 について3つの説明がある。
(1) 我意を張り通す。「まちがいないと頑張る」
(2) どこまでも忍耐して努力する。「成功するまで頑張る」
(3) ある場所を占めて動かない。「入り口で頑張る」
ここでは、(2) の意味についてである。忍耐して努力することであるから、やはり多少の無理をしなくてはならないようだ。
「頑張る」 について辞書に載っている意味はそうであるが、(2) については私の感覚では、
(2') 目的を達成するために、元気を出しあきらめないで努力する。
くらいのものである。 無理まですることは考えていなかった。
辞書の意味が正しいのだとすると、確かに 「頑張ってね」 という声かけがプレッシャーになることもあるだろう。 だが私の中では、辞書の (2) の意味よりも (2') の意味のほうがしっくりしている。 だから、これからも 「頑張って(病気を治すために、元気を出しあきらめないで努力して)」 生きていこうと思う。 (2003.9.12-20:20記)
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− 退院4週間目 −
やっと秋らしくなってきた。こんな日の土曜日の午後は、町の図書館に行って、その後で近くの公園を一周、私はジョギングを、妻はウォーキングをするのが楽しみであったのだが、チューブから胆汁が漏れる体になった今は、ジョギングは叶わぬ。 散歩すらおっくうである。
漏れる胆汁はきれいな黄色である。先日、外来で診ていただいた担当のM先生は
「今のところ問題ないようですね。きれいな黄色なら無菌です。これを飲んでもらってもいいくらいです」
とおっしゃる。
体を張って生産したせっかくの貴重な胆汁である。溜めてジュースとして高く売れないか (幸せの黄色いタンジュース?)。 あるいは、わき腹からすこし出ているチューブにストローをくっつけて、それをチューチュー吸いながらジョギングでもしてやろうか。
今のところ、肝臓や胆管自体には異常はないので、少なくともあと2週間はこのままの生活を続けることにした。
人間、幸せなことに慣れてしまえば幸せと感じなくなるが、同様に、多少の違和感や不便なことでも慣れてしまえば、こんなもんだと思えるようになるものである。
問. 幸せ感について考察せよ。 (回答例 → 幸せ感の原理)
(2003.9.20-18:00記)
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− 再入院だあ −
雲ひとつない秋晴れで、陽射しが隣の西病棟に反射して眩しい。ここは東病棟7階の北側の一室。内科に再入院することになった。
病状が悪化したというわけではない。8月の末一応の治療を終えて、体力と気力の回復のためとりあえず退院していただけのことである。6週間あまりの安らぎのときは終わり、体重はまだ5kgは足りないがすべては予定通りの進行である。
先にお世話になった先生方、そっくりそのままである。看護師さんは新しい方もおられるようである。元気で食欲がある今は、病院の食事もまあおいしいではないか。味は確かに薄いけれど…。
自宅では、おなかも少しは遠慮しておとなしくしてくれていたのだろうか。病室にいるとなんだかおなかが少し痛み出してきたような気がする。これが病院の魔力というものか。あるいはやはり私は病人だったの?
そんなのんきなことを言っていられるのも今の内。制癌剤の投与と、胆管のチューブの入れ替えが始まったら、またまた馬鹿なことを考える人にならざるを得ないだろう。
『よかひよかときの曰く、吾れ
十有五にして学に志さずぼーとしたまま過ごし、二十にしてなんとか学に目覚めるも
三十にして立つことできず、三十三にしてやっと職に付き
四十にして惑わずどころか、試行錯誤でうろたえ
五十にして天命を知らずして、五十一にして大病を患う
この先は矩(のり)を踰(こ)えようとも、心の欲する所に従って生きたい』
今日の検査は採血5本、胸と腹部のレントゲン撮影、心電図。 まことにもって、秋の日はつるべ落とし。6時の夕食時すでに薄暗し。(2003.10.8-18:15記)
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− 今日も秋晴れ −
入院はしたが、治療は来週からのようだ。
小人閑居して不善をなす。まことにもって、凡人は暇になるとろくなことをしない。
日がな一日パソコンパズルを作成して楽しんでいる。
入院した途端に、なぜか胆汁のもれが多くなり、看護師さんにはたびたびガーゼ交換でお世話になるが、プログラム作りにハマルと何もかも忘れて熱中できる。
今日も特に検査はなし。 一日楽しませていただいた。
寅さんではないが
「社会のために働いている労働者諸君には悪いが、まあカンベンしてもらおうか」
今日作成したもの → 点灯パズル (2003.10.10-18:30記)
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− 食欲の秋なのに −
退院していた間は食欲がないということは一度もなかったのに、入院した翌日から食欲減退。腹が減らない。
どんなことでもそうであるが、いくつかの原因が絡み合ってひとつの現象が生じる、と考えなくてはならないと思うので、ここは冷静に考えてみる。
1.病室ではほとんどベッドの上でゴロゴロしているので、エネルギー消費量が少ない。よって腹がへらない。
2.病院の食事がまずい。うまいかまずいかはたぶんに主観的なものであろうから、これには検証が必要とされる。
3.入院した日から、なぜか胆汁が体外に漏れだす量が圧倒的に増えた。横腹から2本出ているチューブが3cmくらい飛び出してきているせいだろうと思うが、いずれにしても胆汁が腸の方に流れにくくなっている。
1 については、努めて動き回りたいとは思うが、用もないのに病院内を動き回るというのはなかなか難しいものである。不審者に疑われかねない。
2 については、主治医の先生や看護師さんに、「贅沢を言うつもりはありませんが、どうも食事がいまひとつですねー」 と話のついでに言ってみたら、「わかります。私たち職員が言ってもなかなか改善されないんですよね。投書箱に患者さんが投書されるのが一番効き目があると思いますよ」
なるほど、そういう手があったか。全患者さんのために改善を訴えてみるか。だが、人のために何かをするということは私の最も不得意とする分野であるし、大体、人の心を動かすほどの文章を書けるとはとうてい思えないのが悲しいところだ。
3 については、主治医の先生によると、胆汁と食欲とは関係しないだろうということであるが、私の場合には胆汁を体内に流すほうが体調はいいように思う。
相変わらず、私の真面目な考察は何の解決にもならないようだ。といって、このままではせっかく戻りかけた体重がまたまた減少してしまう。やむなく、病院の食事を止めてもらって1階の食堂や売店で好きなものを食べることにした。
病気や怪我は、本来自分の生命力で直すしかないのと同様に、病院といえども自分の体調は自分で管理するしかない。 (2003.10.12-16:30記)
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− 今日は松茸ごはんだ −
人の口は正直なものだ。いや口というよりは舌というべきか。今日の昼はなんと豪勢にも、松茸弁当(それに松茸のお吸い物付き)である。 はからずも、食欲が減退していたわけではないことを明確にしてしまった。美味であった!
生まれ育った田舎は中国山地の麓。松茸の取れるところとして知られた所である。子供の頃は、この時期になると長兄が毎朝大きな背負い籠いっぱいに松茸を取ってきていた。だが、最近は赤松が枯れてしまい、ほとんど取れなくなったらしい。
今朝、里の長兄が松茸を送って来てくれたということで、家で早速松茸ごはんにして届けてくれたのである。うまかった!
松茸ごはんと病院食を比較しては、病院食に気の毒であるが、食欲がなくなっていたわけではないことがこれではっきりしてしまった。人間というものは旨いものを食べれば元気がでる単純なものであるなー。病院も、そこのところをよ〜く考えて、薬代に金を掛けるより日々の食事に金を使っていただいたほうが、患者の病気の治りもず〜と早くなるように思うのであります。(2003.10.13-14:30記)
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− 治療再開 −
今日から治療開始。
まず外科外来での受診。やはり総胆管から十二指腸に向かっているチューブが少し抜けかけているということで、即手術着に着替えさせられた。
ただし今日はとりあえずの処置である。太さは同じもので柔らかいものに入れ替えられた。多少の痛みはあったが30分ほどで終了、思ったほどのことはない。 処置後、レントゲン写真を見ながら説明をしてもらい、記念にチューブが十二指腸付近まで入った写真をいただいた。
またまた胆汁を体外に取り出すボトルを付けられ、そのボトルを手でぶら下げて、内科の病室までとぼとぼと歩いて帰ったのであった。本格的な処置は、あさって木曜日に行うとのこと。
そして、内科で制癌剤の点滴開始。1週間に1回であるが、これを2週間行い1週間の休みをとる (初回のみ3週間行い1週間の休み)。 それほど強い薬だと聞かされると多少緊張する。 これを1サイクルとして、何サイクルかを行うのである。
今日が第1日目。まず30分の吐け気止めを点滴して、続いて30分の制癌剤の点滴である。強い薬であるから、いろいろな副作用が出るらしい。 放射線治療とは違って頭髪が抜けることはなさそうだが、白血球や赤血球の減少や熱が出たり体がだるくなったりなどするらしい。したがって慎重に様子をみながら行うということである。 ただし、副作用には個人差が大きいという。 ただ今、その制癌剤の点滴を行っている最中であるが、今のところ何ともない。もっとも直ぐ副作用が現れるというものでもないらしいが…。
とりあえずは、吐け気止めを点滴しているときその副作用で吐き気が起こったらどうするのだろう、という私の心配は無用であった。よかったよかった。(2003.10.14-17:30記)
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− 気合を入れ直さねば −
(A) 今までの私には、階段を昇ることはぜんぜん苦ではなかった。運動になり足腰が鍛えられ健康でいられると思えたからである。だからエレベーターは意識的に避けていた。
大きなカバンにノートパソコンを入れ、その他に本を2、3冊入れると10kgちかくの重さになる。車通勤だからよいが、それでも車に乗り込むまではそれを持ち歩くことになる。 だが、けっして苦にならなかった。腕の運動になると思えば心地良くさえある。
週末のジョギングは、いつも2kmを過ぎたころからは、息の苦しさと足の重さとの闘いであったが、けっして途中で止めようとは思わなかった。やり続けることで達成感が得られるし、体が軽く日常での生活を楽に送ることができると信じていたし、事実そうであったからである。
何事に対しても、そのように生きてきたつもりである。
(B) この病気を患ってからは、もういけない。体を鍛えようという気になれないのである。すぐエレベーターを探すようになる。走ることはおろか、歩くことさえ避けようとする。箸より重いもの(正確には箸でおかずを掴んだものより重いもの)は持ちたくもない気分である。体を鍛えるどころか、体に負担になると考えてしまうからである。
(C) 病気の怖いところは、弱気な気持ちが階段や重い荷物やジョギングを避けるだけのことに留まらないことである。何かにつけて病気のせいにするようになる。 だが、そうなったら却って辛いことになる。何事も守りに入ったら辛い。攻めの気持ちを持ち続けることが少なくとも精神的には楽であることに気づくべきである。そして肉体的にもそのほうがいいのだろうと思う。
(D) 人が横腹から管を出し、胆汁を漏らしているのを見たら、さぞ大変だろうなと思う。確かにこれで健康な人と同じように動き回るのはなかなか困難なことではあるが、慣れてしまえば当の本人には思うほどのことはないものである。おそらく、他の何らかの障害を持った人も、あるいは年取って体が弱った人も、多かれ少なかれ同じ気持ちであろうと想像できる。
だから、へたに同情することはない。自分を取り巻く状況の中で一所懸命生きれば、喜びもあり楽しいものである。
このように(A),(B),(C), (D) とくれば、それなりに健全な主張になると思う。だが、現在の正直な私の気持ちでは(A), (B) で終わりである。われながら修行が足りないと思う。
今日は午後から、胆管チューブの入れ替え。これを無事終えてから、また気合を入れようか。(2003.10.16-8:50記)
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− 白状することは何もないです −
「ぜんぶ白状しますので、もうこらえてください」
と思わず言ってしまいそうなほどに痛い処置であった。幸い私には白状すべきものは何もないからいいようなものの…。16日(木)午後の2時間であった。
右横腹から左側の胆管に入れられていたチューブを、今までとは逆方向にチューブを通そうというのである。
今までのチューブの中にガイドワイヤを通しておき、チューブを抜き、風船つきのチューブに取り替えて膨らましておく。そして、その膨らました風船目がけて、ミゾオチのところからガイドの針を刺すらしい。そして、さらに右胆管まで通して行く。最後にガイドワイヤにそって新たなチューブを通す(作業の段取りの説明は受けなかったので、ひょっとしたら細かいことは間違っているかもしれない)。新たなチューブは一段階大きいものである。
ミゾオチに針を刺し新しいルートを作るときと、新しいチューブを通すときが、まさに拷問なのである。
なぜ、このようなことをするのかというと、左胆管にはミゾオチ側からチューブを入れて置いた方が、今後の処置になにかと都合がいいらしい。それに、今までのように同じところから2本のチューブを出すと、どうしても肉が付きにくくその間から胆汁が漏れてしまうからである。
最初から左胆管には、ミゾオチ側からチューブを入れたかったのであるが、うまく行かなかったのであった。それが今回やっと成功したのである。
17日(水)の朝まで安静。その後も微熱と多少の腹痛で、起きる気はしない。食欲なし。ただし、いざ火事だ! とでもなれば、自力で真っ先に逃げるであろうが…。
私の腹の中は管が張り巡らされているが、腹の外も全体に管やテープが張り巡らされている。 看護師さん曰く、 「まるで芸術作品ですねー」
昨晩から熱も腹痛も治まってきた。食欲も出てきた。いい週末になるだろう。(2003.10.18-9:00記)
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− 人生はいいことだらけか? −
私も患者のベテランになったものだ。気を抜くところと、気合を入れるところを会得して、痛い目にあっても気力的にはあまり消耗しなくなったような気がする。ただし、気が抜けすぎて、何もする気が起こらないのも辛い。
とにもかくにも、
「何事も、気合を入れっぱなしにしていると疲れる、肝心なときだけ気合を入れればよい」
という教えができた。だが、
「いつが肝心なときなのですか? 」
と質問されたら、
「それは経験して自分で会得しないとわからないことだ」
というしかない。 私の教えは、結局なんの教えにもならない。
人の言うもっともらしいことには、このようなことが多い。(このこと自体が、人の言うもっともらしいことのひとつである。)
では、人の言うもっともらしいらしいことは、何の役にも立たないのかというと、これまたややこしい。
事実は事実としてある。その事実に気づくこと、その因を追及すること、そしてそれを後世に伝えること、これが学問の精神である。その知識を役に立てるか立てないかは、その知識を得た人による。
さて、人の言うもっともらしいこととして、
(A) 人生では、災いがいつ福の原因になるか分からない、また福がいつ災いの原因になるか分からないものである。だから、災いも悲しむにあたらず、福も喜ぶに足りない。
(B) 人生には、いいことも悪いこともまったくない。単に中立のことが起こるだけだ。
というのがある。
(A)と(B)の主張することは異なる。 これらを簡単化イメージで表すと、図のようになる。
(A) では、人生にはいいことと悪いことがあることを前提にしている。ただし、これらは互いに絡み合っていて何がいいことで何が悪いことなのかは、長い目でみれば一概には言えない、と言っている。
(B) では、人生にはもともといいことも悪いこともない、と言っている。
どちらが真実なのか? あるいは、どちらも間違いなのか?
いずれにしても
「ものごとは考え方ひとつで、どうにでも考えられるということである。だから、自分が生きやすいように考えるほうが楽に生きられるよ」
と言いたいのであろう。
気持ちが楽になること、それこそが自分にとっての絶対的に 「いいこと」 なのであると考えれば、人生にいいことはある。自分の気持ちを自由に操れるように修行すれば、人生いいことだらけである。 のかな?
今日は2回目の制癌剤投与。 いま無事終了。 (2003.10.20-14:00記)
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− 今日は一日ベッドに寝たまま −
制癌剤の影響であろう、昨晩は38.5度の熱が出た。たまらず解熱剤使用。今日は熱は下がったが、体のだるさ、少しの腹痛で、食欲なし。 寝たままで何もする気がしない。
内科と外科で代わる代わる治療をしてかわいがっていただき、どちらの影響かを判断するのが難しいであるぞよ。
人生に何故、悲しみや苦しみがあるのか。
それは喜びや楽しみというものが、どのようなものであるかを知るためである。
という考え方がある。
冷たいものがあるから熱いものがある。 低いところがあるから高いところがある。 悲しみがあるから喜びがある。苦しみがあるから楽しみがある。……
ほんとうにそうなの? 定義さえしておけば、熱いものは熱い、高いところは高い、… のような気がするけどなー。
病気があるから健康がある。憎むことができるから愛することができる。戦争があるから平和がある。
なんだかおかしいなー。(2003.10.21-17:20記)
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− 脳内痛度 −
昨日は夕刻、微熱が出た程度、腹痛はやっと治まった。ただ食欲はまだまだ。
看護実習の学生さんに、洗髪と洗足をやっていただいた。自力でできるのだが、体調がよければ学生にやらせてください、とお願いされたのである。こうしていても私も少しは世のためになっているようだ。
実習生はやることすべてが丁寧である。脈拍を測るのに30秒間きっちり数える。ベテランの看護師さんになると、わずか3秒ほど手首を握ったかと思うとそれで計測が終わっている。さすがである。
もっとも、私ほどのベテランの患者になると、脈拍数くらいなら測らなくても大体わかる。実習生が丁寧に測ったあとで、私が、「72ですか?」 と言い当てると 「え! どうして?」 と驚いてもらえるのも楽しみのひとつである。 たまたまぴったり当たっただけのことであるが、2回に1回くらいは当たる。
体温、血圧、脈拍など、なんでもできるものは数値化して表す、というのが、ガリレイ以降の近代科学の精神である。
最近では、へーそうだったの、という意外性を数値化して、 ”何へー” という単位で表すことが流行っているらしい。その他、ゴージャス度とか、落ち込み度とか、なんでも数値化して遊べる。
これらは、もちろん遊びであって、科学の対象にならない。なぜなら、再現性がないからである。同じ対象については、いつどこでだれがやっても同じ数値になるという保障がないものは、再現性がないといわれ、科学の対象にならないのである。
ところで、地震については、地震そのものの大きさはマグニチュードという単位で、各地の揺れの程度は震度という単位で表される。震度はその地点での揺れ具合だから測定できるとしても、マグニチュードは直接測るわけではあるまい。おそらく、各地の震度から決めるのであろう。震源地での震度はマグニチュードと一致するのであろうか?
先週の外科での胆管チューブの差し替えは、かなり痛いものであった。 わきで付き添って見ていてくださった内科の若き主治医のW先生は、
「よくあんな大きなものを体の中に入れても痛くないものだなあ」
と感心して見ていた、とのことである。
「チューブを押し込んでいるときは確かに痛そうでしたが、ちょっと休憩と言って止めたときや、入ってしまってからは平気な顔をされていましたね」
まさに、チューブを押し込んでいるときの震源地は私の胆管内、マグニチュードは6。私自信の脳内での痛度は10。マグニチュードより大きい。 わきで見守っていてくださった内科の心やさしきW先生の脳内痛度は2程度か。 外科の担当医の先生の脳内痛度はいくらであろうか?
痛度を伝達したい人、心配させないためにも伝達したくない人。
痛度に関しては、痛みそのものの大きさ、本人の感じる痛み、それの伝達法などなど、いろいろと難しい問題がありそうだ。 同様に、人の悲しみや、喜びも難しい。
内科の制癌剤投与の影響が治まり、先週の外科の治療の影響もやっと癒えたと思ったら、明日、また外科の治療。チューブを徐々に太いものに変えていくものらしい。(2003.10.23-15:30記)
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− 一歩一歩前進中 −
昨日の左胆管チューブ入れ替えの治療は、前回ミゾオチから左胆管に入れて右胆管方向に進入させていたチューブを、総胆管を通り十二指腸まで通す、というものであった。痛くもわずか30分間のあざやかな治療であった。 ついに最終状態に行き着いた。(下図)
同時に、右チューブのD点は閉鎖、すなわち内婁化(ないろうか)して、胆汁は十二指腸に流れるようにしていただいた。
今後は、左チューブを太くし内婁化することである。 道は長く険しいが、お陰で一歩一歩着実に進行している。
今回の外科の治療によって、微熱も腹痛もあまりないようなので、土、日と外泊願いを出した。ところが、今朝土曜日の朝の血液検査によると、白血球が急激に下がってきているとのことで、外泊は中止になってしまった。月曜日に投与された制癌剤の副作用である。まだ薬の量の調整段階であるから、このような副作用は避けられない。
白血球の減少は、それ自体は何らかの症状を引き起こすわけではないが、風邪など他の病気に感染しやい体になっているらしい。だから、努めて手洗いとうがいを励行するようにとのことである。 (2003.10.25-18:50記)
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− 身もふたもないという想い −
水に飛び込んでおぼれている自殺願望者に、浮きを投げてやれば 100% の人がそれに必死でつかまろうとする、らしい。
このことは何を意味しているのか。
…
生きるということは、言葉で考える以前の行為であるということである。
言葉以前のもの、そのようなものが確かにある。それが大切なものなのである。
それは何か。 だから、それは言葉では表せないものである。
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私に言わせれば、そんなたいそうなことじゃあないよ。おぼれているものは、だれだろうと苦しい。そのどうしようもない苦しさからとりあえず逃れたいと思うのは、自殺願望者であろうと誰だろうとそうである。 苦しみや激痛は、死より辛いだけのことだ。
…
でも、そういってしまっては身もふたもない。
そう、身もふたもない、のだ。
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なぜ、身もふたもないのか。
本当に大切なことは、この身もふたもないという想い …。
(2003.10.26-00:50記)
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− 愛と保険があるかぎり −
胆管癌に対して制癌剤の投与は、静脈に点滴として行われる。まず30分間で吐け気止め、続く30分間で制癌剤の点滴である。
これを1週間に1回行い、2週間続けて1週間は休む。すなわち3週間に2回投与するわけである。これを1サイクルとして何サイクルか(6サイクルくらい) 行うらしい。ただし、初回の1サイクルだけは3週間行い1週間の休み。
すでに最初の1サイクル目の2回の投与が終わった。そして、今日が3回目の予定日である。
1回目の投与による副作用としては、その日と翌日に微熱がでた程度であったが、先週の2回目の投与では、その日高熱がでて、翌日も微熱がでた。そして、1立方メートル当たりの白血球数が5,100個あったものが、4,590個、3,430個と徐々に減少しだし、5日後の土曜日には1,800個までに減少してしまった。日曜日は1,870個、一応減少は止まった。なお白血球数の基準値は、1立方メートル当たり3,500〜9,000個である。
制癌剤の副作用は、個人差が大きいという。全く何の副作用もでない人も3割いる。4割の人は微熱がでてちょうど風邪を引いたような感じになるという。そして残り3割の人が、高熱がでたり、吐き気、食欲不振、血液中のいろいろな成分が減少するなどという副作用がでるとのことである。
この病気に関しては、なんでも一番険しい選択をさせられ続けてきた私であるが、またまた最後の3割に分類されてしまった。
さらに、それ以外にもこの制癌剤には大きな副作用があるのである。制癌剤を投与する度、私の銀行口座の残高が確実に急速に減少している。
制癌剤は1回がわずか30分間の点滴量にもかかわらず、10〜20万円もするものらしい。白血球の減少を補うための薬からして数万円もするのだそうだ。 おお、癌の進行を留めるためには、これを何回も継続しなくてはならないとは。
やはり癌は恐ろしい病気である。 救いは保険が利くこと、そして個人的に加入している保険である。保険会社の回し者ではないが、「癌からあなたを救うのは、愛と保険です」 (2003.10.27-11:00記)
追記: 白血球減少のため、今日予定されていた制癌剤投与は中止になった。 すなわち今週の投与は中止である。 これで白血球減少と、口座残高減少は一時留められた。 (2003.10.27-11:50記)
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− 「会」 設立 −
この度、私は 「会」 という会を設立し、その会長に就任した。この 「会」 の会員は、今のところ私一人である。
この会の活動内容は次の通りである。
活動内容 : この会 「会」 の存在意義について考える
すなわち、「会」 はこの会自体について考える会である。
このような一見無意味な会をなぜ創設したのかと疑問に思われる方もあろうが、この疑問をもったあなたは、この会の立派な会員になってしまう可能性があるので注意していただきたい。なぜなら、この会の存在意義について考えることを目的とする会だからである。
まだ設立されたばかりなので、何の成果も出ていないのであるが、ひとつ心配していることがある。 もし唯一の会員である私が死んだら、この会も自動消滅するのだろうか。会員のいない会というものは、精神のない肉体のようなもので存在し得ないものなのかどうかということである。逆にこの会がなくなっても、この会によって得られた成果や会の精神などが元会員である私によって引き継がれるならば、この会は存在しているとみなされてもいいのだろうか。
この 「会」 の本質は名前にあるのか、精神にあるのか、名前と精神は分離可能なものなのか。
まだ会員は私一人なのでいいが、そのうち何人かの会員で構成されるようになったとき、この会の特色のようなものが出てくる可能性がある。このような特色は、この会の会員の性格に依存するのであろうか。また、この会も歴史を重ねてくると、会の存続にこだわる会員も出てくるかも知れないが、なぜ会の存続を願うのか。あるいは、この会の会員であることを誇りとするような会になる可能性だってある。その誇りとはなにか。
何もないところから、いろいろなことが生じてくる。人が生きているということだけから、いろいろなことが生じてくる。そういうことである。
「私」 という会の会員である白血球の数もほぼ正常値に戻り、今日は 「私」 という会の建物(身体) は健康に存在している。 ただ、「私」 という会の活動内容は、パッとしないようである。 (2003.10.28-14:40記)
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− 自分とはなにか −
個人のホームページを持ち、様々な情報を発信する人がどんどん増えている。それらの殆どは、本名を明かさず匿名である。個人のホームページ作成のおもしろさは、本名を明かさないで表現する自由さにある。また、不特定多数の人が見ることのできるものであるから、個人情報は漏らさないように細心の注意をすることは、安全性の面からも必要なことなのである。
だが、どんな人なのか全く分からない他人(ひと)のページを見る気はあまりしないものである。 このようなものを作る人は、どのような境遇の人なのかということは、重要なポイントである。
そこで、ホームページ作成者としては、個人が特定されるような情報は出さないようにして、プロフィールとして自己紹介的なものを書いている人も多い。
ところで、あなたは 「自分を紹介してください」 と言われたら、何と答えますか? ただし、
「どこそこでいつ生まれ、どのような姿形で、どこそこの学校を出て、どこそこに勤め、どんな仕事をしている、などなどというような、誰かに尋ねるか調べればすぐ分かるような個人情報はいっさい言わないで、自分を紹介してください」
いったい何が残るのだろう。
彼は言った。「彼女が好きだ。なぜなら、やさしいからだ」
彼が好きなのは、ほんとうに彼女なのか。やさしさではないのか。やさしいなら、彼女でなくてもいいのではないのか。
彼は彼女のどんなところが好きだと言う。
だが、好き嫌いに理由があってはならない。彼女そのものが好きでなくては、彼女が好きであるとは言えない。
では、彼女とは何だ。
そこで、ホームページ作成者としての私は開き直るしかない。ホームページ上の私は、ここに表されたもの、これ以上でもないしこれ以下でもないもの。実態の私というものがあったとしても、それとは別人。
身体のない、ソフトだけの人間。それでも、痛み、悲しみ、喜びもある人として感じられる私が存在するなら、そこにおもしろさがある。
今日は、外科治療予定日。いやでも身体を意識せざるを得ない私。(2003.10.30-09:40記)
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− 苦しみから解放されると、ものを考えなくなる −
左胆管チューブも内婁化し、外科的治療は完成した。欲をいうとチューブをもう少し太めにした方がいいらしいが、今はこれでいいだろうということになった。今後は、もしチューブが詰まれば交換すればいいだけで、それは大して痛みを伴うものではないとのこと。身体から2箇所ふさがれた管がちょこっと出て、上から防水テープで覆ってある。これで入浴もできるし、ジョギングの許可も出た。なんら不自由はない。
内科での制癌剤投与は、前回の副作用で白血球と血小板の減少があったので、薬剤の量を減らし、しかも1週間投与1週間休みのサイクルに変更してみることになった。制癌剤投与も、日常生活に支障のない範囲で行うとのことである。
今日1日(土)から3日(月)まで外泊許可が出た。今日は、自転車で秋のさわやかな風をゆっくりと浴びながら町の図書館まで。そして、今は自宅でくつろいでいる。
痛みや苦しみから解放されると、なんだか何もものを考えなくなる。
なんでもそうであるが、努力をしたものはそれだけ優れる。苦労をしたものはそれだけ強くなる。優れた状態、あるいは強い状態で生きれば、さらに優れ、あるいは強くなる。したがって、努力や苦労は若いときにしたほうがよい。
できれば自らの意志で努力や苦労をすればいいのだが、そうはいかない。したがって、教育と称して努力や苦労を強いられる。
それ以外に、仕事と称してやむなき状況に立たされたり、病気や事故など思いもかけぬ不幸な事態に見舞われたりして、自分の意思に関わらず苦労をさせられ、人は強くなり深みを増し成長する。
このようにして、このような私ができた。
これはだれかに感謝すべきことだろうか。それとも、何が優れ、なにが強く、何が魅力的なことであるかの基準さえ、知らぬうちに与えれらていた私を後悔すべきだろうか。
なにも努力や苦労は強いられない人生。それが最高の価値である世界。それを目指して人は努力し苦労する。(2003.11.1-21:40記)
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− おかげ様で退院です −
ただただ本能的に、食い物を食い出るものを出してきた。自分の身体であるにもかかわらず、内でどのようなことが行われているのかということなど考えてもみなかった。
私自身は何も考えないで何の指令も出さないのに、私の身体は食ったものを消化し血や肉やエネルギーとなすために、胃や肝臓や膵臓や胆嚢や腎臓や十二指腸や小腸や大腸はそれぞれの役割をきっちりこなしていた。もちろん消化器官ばかりではない。心臓や肺やその他の器官もきっちり自分の役割を果たしていた。
肝臓が昼夜を問わず胆汁を造り胆管を流していたとは、知る由もないことであった。
生まれてこの方、何も考えることなく生きてきた。学校に上がる歳になれば学校に行き、就職する時期になれば就職し、結婚し子供ができた。ほとんど本能的な流れである。私の生きてきたことがこの世の中でどんな意味を持ち、どのような影響を及ぼしたのか及ぼさなかったのかに思いを致すことなどなかった。
意識しようとすまいと、身体に構造があり、仕組み、働きがみごとに存在している。自然の営みに構造があり、仕組み、働きがある。そして、人が生きることにも、これらが存在している。私の病は、私にこのことに気付かせ、さらに深く想いをめぐらすことを求めている。
今日10日(月)、ついに退院の運びとなりました。外科的、内科的にも継続的に治療を必要とする状態ですが、今後は外来での処置で可能とのことです。
多くの方々にお世話になりました。心よりお礼申し上げます。(2003.11.10-17:50記)
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